自分を見ること ー『Golden Dead Schiele』をみて

まだバウホール公演の余韻の中に漂い続けている。
次の大劇場公演はトップコンビの退団公演でもあり、初舞台公演でもあり…きっとまた新しい気持ちが心と頭の少ないキャパシティーを埋めてしまうだろうから、この余韻を少しでも言葉にしておきたいと、初日直前に慌ててPCの前に座っています。
 
とにかく言いたいのは、
・死の幻影の存在
・いまの彩海さんがエゴン・シーレを演じたこと
のふたつが、わたしにとっておもしろかった、ということです。
 
わたしは予習好きなので、エゴン・シーレの作品集や手紙を集めた書籍などを読みながら、演目が発表されてから初日の幕が開くまでの時間を楽しんでいました。
 
とくに印象に残ったのは、二重自画像の作品たち。
絵の中には画家自身が2人(3人の作品もある)いて、2人がこちらを睨みつけていたり、1人が亡霊のようにもう1人の人物を覆っていたり、一目では人物だとわからない黒い影が背後にいたりと、2人の関係性に様々な想像が膨らみ、単なる自画像よりも複雑な意味を感じる絵画表現を興味深く感じた。
 
彩音さん演じる"死の幻影"が、シーレの前に鏡の中からすうっと現れたとき、まさに二重自画像だ!と興奮した。
彩音さんの不気味なほどの静かさ(激しく踊っても足音や衣擦れの音が全然しない!)や、瞬きをほとんどしない異様さ、彩海さんの演じるシーレを撫でる指先の妖しさ、シーレを見つめるまなざしの力強さ…実際の身体を使って表現しているのを目の当たりにして、実在のシーレが遺した二重自画像という絵画表現が、舞台表現に変換される意義をとても感じた。
舞台作品ではこうした概念(ロミジュリの"死"と"愛"とか)を表す役者が登場することは珍しくないけれど、今まで見たどの作品よりもその存在の必然性に納得できた。
 
二重自画像を含む自画像の作品をシーレが最も多く描いたのは、敬愛していたクリムトの影響からの脱却を図っていたという1910年から1911年にかけてらしい。
 
『Golden Dead Schiele』の台詞でも、モデルと共に鏡越しの自身を描くシーレが「あなた、ナルシスト?」と問われる場面がある。
でも実際の絵画作品を見ると、ナルシズムという言葉で想起するような甘い自己陶酔や自己憐憫は見えなくて、その皮膚を剥がしてまで流れる血を見ようとするかのような痛々しさや歪みに心がざわつく感覚を抱く。

『鏡の中の自画像(古川真宏 / 平凡社)』という本を読むと、「自画像というものに宿命的に付きまとう、観察する主体としての自己と観察される対象としての自己への分裂、あるいは創造者としての自己と被造物としての自己の不可分性、それだけでなく、他者としての自己に同一化する鏡像段階のシナリオをそこから読み取ることもできる。」とあり、そのように内なる他者を内観する自己観察者としてのシーレの冷静さ、暴力性をおそろしいほどに感じる。
 
そんな狂気じみてもみえる画家を演じた彩海さんもまた、技術の研鑽と冷静な自己観察の先に、自分だけの表現にきっとたどり着ける人なのだと感じる瞬間がいくつもあって、とても圧倒された。
 
初日から、幕開きの歌でバウホールの空間に収まりきらないくらいの音量を爆発させていたこと。
少年時代から『死と乙女』を描き画家としての成功を果たすまでの時間の経過、経験の重なりがその声色や表情の変化に繊細に感じられたこと。
まばたきひとつ、呼吸ひとつに、意味を感じてしまうほどの集中力が、こちらの呼吸も忘れさせるほどだったこと。
千秋楽の一幕ラストできれいな大粒の涙を溢れさせながら、歌声は絶対にぶれなかったこと。
 
彩海さんはかつて雑誌のインタビューで
「私は自分に自信がないからか、演じる時も自分自身は脇に置き、その役の力に頼って生きてしまう。でも、それだと限界があり、世界が狭まってしまう。これからどんな役にも染まれる男役でありたいからこそ、ちゃんと自分と向き合い受け入れなければなと。」
と話していた。(+act 2020年5月号)

 

演劇論については全くわからないけれど、自分をただ感情の装置として扱い、その操作を役に委ねていたということなのかな。
当時(壬生義士伝やONCE UPON A TIME IN AMERICAの頃)の彩海さんのお芝居には、その役の色にきれいに染まる不思議な透明感があって、わたしはとっても好きだった。


たしかにその頃に比べると、演じる役はもちろん、作品や劇場の空気を掴んでコントロールする彩海さん自身の存在感が増して、客席が物語に身を委ねられる安心感をつくっていたように、振り返って思う(観劇中はあまりにも没頭していました)。 
これは、彩海さんが"ちゃんと自分と向き合い受け入れ"た先に辿り着いたことなのかもしれないし、シーレの自己観察に近いプロセスなのでは、と勝手に考えた。

 

「眺めることは画家でもできます。見ることはしかしながら、それ以上です。」

という言葉を遺したエゴン・シーレが、画家としての自己の確立のために選んだ道は、
ひたすらに自分を見ること。自分を描くこと。描き続けること。
 
新人公演を卒業した彩海さんが、これから役者としての唯一無二の道をさらに拓いていこうとしているいま、シーレを演じたことが確かな礎になりますように。

そして叶うなら、今の彩海さんがお芝居について考えていることを知る機会があるといいな。
とっても興味津々です。

月組『Golden Dead Schiele』をみた

観劇中に感じていたことを忘れたくないだけの、わたしのための脳直メモです。

 

 

第1幕

第1場 遺されたアトリエ

・開演アナウンスだけでぐっときてしまう。客席のこちらの集中力を高めてくれるような落ち着いた声色。

・『死と乙女』の背景みたいなセット、線描のダンサーたちの衣装がとても美しくて、幕開きから世界観に引き込まれる。

語り部レスラー(英かおとさん)の静かで穏やかな声からもう彼の人柄がみえるのがよい。

・主人公の死の場面から物語が始まる構造は特段珍しいわけではないけれど、妹ゲルティ(澪花えりささん)が話しかけるのがエゴンを演じているはずの彩海さんではなくて、死の幻影(彩音星凪さん)なのがおもしろい。この作品におけるエゴンと死の幻影の同一性を匂わせつつ、死の幻影に誘われるように、舞台中央の『死と乙女』の画から同じポーズの本当のエゴン・シーレ(彩海せらさん)とヴァリ(白河りりさん)が現れるしかけもシンプルな驚きと美しさがあってよかった。

・(ただ、その後にエゴンが「君を抱く僕はまるで死の幻影」とまさに歌うのは、答え合わせされてるみたいでちょっと面白くなる時もあった…なんというか、全体的に歌詞が直截的すぎる気がしなくもなかった)

 

第2場 プロローグ(死と乙女~第2回国際クンストシャウ)

・『死と乙女』のポーズから始まるプロローグがすきだった。死の幻影に囚われるエゴンがヴァリとの別れに見ていたもの、クリムトへの憧れと畏れ、自分の才能への信頼と驕り…短い場面なのに情報が詰まってる。音楽も素敵だし、ただ美しかったり格好良かったりするだけじゃない不思議さのある振付にも引き込まれた。

グスタフ・クリムト(夢奈瑠音さん)の燕尾服姿がなんだかかわいくみえた。けどその後の本編の出番で醸す暖かさだけじゃなくて、その存在がエゴンに与えたプレッシャーも十分に滲ませていて凄みがあった。

・グスタフとエゴンがふたりで踊るところ、後ろの線描のダンサーがエゴンの実際の絵のポーズを取っているのかなと思われるところがあった。たぶんここ以外にも。絵画の世界が抽象的に、でもたしかな肉体をもって目の前にあってすごく素敵な振付!

 

第3場 レオポルドの家・1919年

・レスラーさん、レオポルトさん(佳城葵さん)、エーリッヒ・レーデラー(真弘蓮さん)の三人芝居。交わしているのはわりと説明台詞に近い言葉なのに、それぞれの立場(身分や職業、エゴンへの想い…)や性格がみえるのがすごい。お芝居の技術を感じる。

 

第4場A トゥルン駅

・少年エゴン(静音ほたるさん)と少女ゲルティ(八重ひめかさん)が元気いっぱいでとにかくかわいい。少年エゴンがDiaryの彩海さんの衣装を着てるのはずるい!えもい!

・お母さんのマリー・シーレ(桃歌雪さん)が「街は華やいで 子供たちは駆け回る これが私の幸せ / 世界で一番まぶしいもの それは あなたたち」と子供たちを見つめながら歌う声があたたかくて品があって、それだけで泣けてしまう。

・兄妹が静音さん八重さんから彩海さん澪花さんに入れ替わるところをいつもめちゃくちゃ見ていた。照明が当たる前からとびきりの笑顔でゲルティを見つめながら飛び出してくる彩海さんがかわいかった。少年時代から演じてくれて嬉しいし、ここから声色や表情がどんどん変わっていくのが見事すぎる。

・エゴンが明るい声で「街は華やいで この景色を僕は絵に描く これが僕の幸せ / 世界で一番まぶしいもの それは…」と歌う瞳の輝きがものすごくて、お父さん(大楠てらさん)にスケッチブックを燃やされた瞬間に失われるその輝きを下手の席から観て苦しかった。

・エゴンの絵画への道を否定する父とのやりとりは3回(裁判のシーンを入れたら4回か)あるけど、上手→下手→中央セット上と、舞台の全部を使っていて印象に残るね、丁寧な演出だね、という話を友人とした。

 

第4場B ギムナジウム

・弱っちそうな3人(和真さん、涼宮さん、天つ風さん)にぼこぼこにされるエゴン。もはや彩海さんのお家芸になりつつある暴力受け芸にちょっと面白くなる。

・鏡の中に浮かび上がる死の幻影。浮かび上がる、という表現がしっくりくる、彩音さんの存在感のコントロールがすごかった。彩音さんと彩海さんとの踊りは公演を重ねるたびに息が合って、音にもきれいにはまって、エゴンと死の幻影の接近と拒絶の反復が鮮やかにみえるようだった。

・自分の描いた絵を掴んで「僕にはこれしかないんだ」の表情の複雑さを私には形容しがたくて、でもラストで『死と乙女』を描き切って見せる表情と一貫性がある気がしてすごく心に残った。

 

第4場C 父の死

・母に「どうして母さんはわかってくれないの。僕が絵を描きたいこと、知ってるでしょう…?」と縋るような甘えた声を出す子供と大人の間にいるエゴンがずるくてよくなくてよい。

・エゴンの一人称がずっと"僕"であること、中流階級出身の育ちの良さを滲ませる脚本上の役割を理解しつつ勝手に心をくすぐられていた。

 

第5場A プラーターの酒場

・真ん中を注視しながらも、酒場のみんなが毎日違うことをしてるのを感じていいなと思った。とくに天つ風朱李さんのボトルやグラスに入ったお酒が見えるような細やかな仕草、彩姫みみちゃんの自由な酔っ払い芸が楽しそうで嬉しくなった。

・新芸術集団の歌の勢いと眩しさがすごい。舞台の隅々まで生き生きしていて、ひとつの場面をつくろうとするエネルギーのきれいな塊を受け取ったような気持ち。その真ん中に立つのが彩海さんであることがたまらなかった…。

・歌中でエゴンがたくさんの人と交わす笑顔がそれぞれに違って、その表情の豊かさに何度でも驚いた。

・酒場の場面は1918年のレスラーさんが当時を振り返る思い出のひとシーンなのだと思うと、眩さを感じるほどに、もしかしたらここのエゴンの笑顔を最後まで守りきれなかったと思っているかもしれないレスラーさんの苦しさに勝手に共感してしまう。

 

第5場B 路上

・レオポルト叔父さんとエゴンが歌で喧嘩するの、ミュージカルを感じる。佳城さんの過不足ないお芝居がすきだけど、歌ってもそうなんだなあ。

 

第6場A エゴンのアトリエ

・ジャケットを脱ぐだけで次の場面に進むのがなんだかいい。

・鏡越しにモアと自分を描くエゴンのそれっぽいポーズ、もちろんかっこいいしオペラグラスを上げたけど、たまに中の人の画伯ぶりが脳内にログインしてこっそり気が散っていて申し訳ない(誰に?)。

・「クンストシャウで見た、ムンクゴッホ、そしてクリムト。みな自分自身と向き合っていた。これからは個人の時代が来る。」の自分に語り聞かせているみたいに、囁くような声が興奮気味に段々大きくなるのがよかったな。絵が描けないなら生きる意味がない、という前場の台詞にこめられた絵を描くことへのモチベーションの絶対性への説得力が増すというか。

・モアにつまらない男、と蔑まれて微かに振り返るところ、鉛筆を持ったままの指のうつくしさ、仲間と喧嘩して金策に頭を悩ませながら天を仰ぐ表情とため息。前方席でもオペラグラスをつい覗いてしまった…。

・酒場での仲間との結束→叔父さんとの喧嘩→アトリエでの絵を描く興奮→仲間との喧嘩…とずっと出ずっぱりのエゴンの感情がジェットコースター過ぎるので中の人が心配になったけど最後まで杞憂でした。

 

第7場 クリムトのアトリエ

クリムトのアトリエの乙女たち、ひとりひとりが美しくて夢のような場面。『ベートーヴェンフリーズ』の絵が動いているみたい。朗らかな目元の乃々れいあちゃん、つんとした口元の八重ひめかちゃん、うっとりした笑顔のまのんちゃん、包容力溢れる桃歌さん…表情もみんな違ってそれぞれ見つめたかった。

・このシーンに限らず、コーラスがきれいで神秘的。こういうディテールが世紀末ウィーンの香りを漂わせるのかな。踊りながらお芝居しながら美しく歌っていてみなさんすごい。

クリムトさんがキャンバスの前で居眠りしているとき、腰掛けたスツールの上の太ももの筋肉の形がスモック越しに透けているときがあって、中の人を感じてこっそりときめいていた。

・「少し水を飲んでくる」「私が」「君は使用人じゃない、大丈夫だ」とか「グスタフでいいと言っただろう」「すみません…グスタフ」とか、こういうやりとりに熊倉先生の健全さと丁寧さを感じてほっとする。

・自分の作品に対するヴァリの感想を聞いたとき、クリムトのアドバイスを聞いているとき、まばたきをほとんどしないで相手を見つめるエゴンのまっすぐな眼差しがすきだった。絵を描くことに対する真剣さがこもっているようで。

・「君は芸術を追い求めるべき存在だ。君には才能がある。いや、ありすぎる」「君は誰にも描けない一瞬を捉えることができる。だからもう私を目指すことはやめなさい。」「芸術というものは簡単には見出せない。だが、君にはできる。そこから目を背けてはいけないよ。」なんて厳しいことを言うんだ。そしてなんという当て書きなんだろう、と思った。ロセッティのときも感じたけど、意識的なんだろうか…。

・「見つけたい 自分だけの新しい世界 もっと飛べるはずだ 君なら/僕なら いつか必ず」と歌うグスタフとエゴンのデュエットソングはきっと熊倉先生がこの作品を通して彩海さんや月組や宝塚に送るエールなんだろうなと思わせてくれて歌詞もメロディもすごくよかった。ふたりが丁寧に声を合わせて歌う姿も、グスタフとエゴンのお互いへの敬意が滲むようで美しく、照明の爽やかな明るさもあいまって、モデルの場面に引き続き夢のようだった。

エゴンと歌った後、場面の始まりと同じようにイーゼルの前に腰かけるクリムトが満足そうに笑っていることに気づいてぐっときた。若者の才能を信じている微笑み。

 

第8場A プラーターの酒場

・新芸術集団の展覧会を経てマックス(七城雅さん)とエゴンがお互いの芸術論をぶつけ合うところ、それぞれの言い分が理解できるだけに切ない。マックスの「受け入れられる絵を描くべきだ」という立場も、エゴンの「人の真似をしても新しい芸術は掴めない」という主張も、ものをつくる姿勢としてとてもわかる。

・七城くんの怒りのお芝居が熱くて、しっかり場面をリードしていて、そのテンションを柔軟に受け返す彩海さんとの喧嘩がかなり見応え十分だった。あとは、マックスに胸ぐらを掴まれてエゴンの身体が少し浮くのがとてもよかった…。

 

第9場 ノイレンバッハ

・先行画像と同じ、絵の具で汚れた赤いスモッグ姿、待ってました…!ちょっと腕を捲って細くて筋のある手首が見えてるバランスがよい。

・グスタフのアトリエではイーゼルに置かれたグスタフの描きかけの絵の前にエゴンの素描が並べられて、今度はエゴンの絵の前にグスタフの絵葉書がさりげなく置かれるのがすきだった。お互いが自分の絵と同じくらいかそれ以上に相手の作品を大切に見ていることの象徴に思えて。

・「絵は描き続けないと到底グスタフには及ばない」と当然のことのように熱をこめて呟くエゴン。絵を描くことに対する真摯さ、純粋さがまっすぐ伝わる。この言葉をずっと覚えていたヴァリだからこそ、拘置所にいつも使っている紙と鉛筆を持ってくるんだよなと。

・ヴァリの「あなたの絵がもっと見たくなった」という台詞もいいなと思った。その前に共にアトリエで過ごすモアは、情欲の対象としてエゴンに興味を持つ描写があるから、そうではなくてエゴンの作品自体に興味を持ってくれるヴァリの特別さがよくわかる。

・りりちゃんヴァリの軽やかな口ぶりも、ヴァリの言葉を丁寧に聞いて少しずつ心の壁が薄くなっていくような微かなエゴンの表情の変化も本当によくて、最後の「送ろう」「いいの?」「本当にまた来てくれる?」「もちろんよ」のやりとりが、直後にアントンがナレーションしてくれる同棲の経緯に違和感がないほどに、恋の始まりとしてこれ以上ないくらい機能していてたまらなくなる。恋をする彩海さんはよい!

・アントンのナレーション中、暗闇の中でスモッグを脱いで畳んでシャツの腕を捲って窓に向かいヴァリの腰を抱くエゴンを見つめ続けているとき、同じくオペラグラスを上げ続けるオタクたちの心がひとつになっていることを感じて楽しかった。準備が早めに整って、一瞬だけ両手を腰に当てて仁王立ちになってた公演があり、そのシルエットがかっこよかった。

 

第10場 タチアナの家出

・ヴァリと隣り合ってシャツ姿で窓の外を見つめてはしゃぐ姿にもときめくし(お尻が小さくて薄いから後ろ姿の男子感がすごい)、さらにヴァリの手を握って嬉しそうに言う「世界に僕たちしかいないみたいだ」の甘さよ…!恋をする彩海さんはよい(2回目)。

・嵐の中身一つで飛び込んでくるタチアナ(彩姫みみちゃん)が、ずぶ濡れであることと暴力をふるう父への恐れから震えるお芝居をしていて、その震え方の日々の探求ぶりに感心した。歌と台詞とのつなぎ目も回を重ねるごとに自然になっていってすごかった。今後の活躍が楽しみな役者さんになった。

 

第11場 エゴンの逮捕

・「いい気味だ~♪」「エゴンのピンチだ~♪」「どうしてこうなった~♪」なんとなく歌詞がおもしろくて、シリアスな場面なのに思い出すとふふっとしてしまう。全員あたりまえに歌詞が明瞭に聞こえるので余計に…。

・絵の具で汚れた白いシャツに黒いスラックスという極めてシンプルかつ華奢な身体のラインがわかりやすい姿で大きめな男役さんたちに乱暴に牢屋にぶち込まれる姿に軽率にぐっときた。膝をついて眉根を寄せながら天を仰ぐ姿、心の奥底をくすぐってよろしくなくてよい…。

 

第12場 拘置所

紙と鉛筆を差し入れたヴァリに「本物の芸術家よ」と歌われてゆっくり見上げる瞳の揺れ、頼りなさ、絶望の色…たくさんのことを語る眼だなと心底思う。その瞳からこぼれた千秋楽の涙が本当にきれいだった。し、どんなに瞳から感情が溢れても声が全く震えないのはどういうことなのでしょう。

・りりちゃんの歌声も、憐れみや優しさより、エゴンが絵を諦めないことへの信頼が何より強くあってよかった。

・紙と鉛筆をただ見つめるエゴンの表情がめちゃくちゃによい。どんな表情なのか言葉で描写する力を持たないことがかなしいほどに。もし万が一私がエゴンを演じたら、悲しみとか怒りとかもっとわかりやすい表現をしていると思う。運命に絶望しているようでも、絵を描くという業に圧倒されているようでもあり…どうしてこの顔、瞳の表情に辿り着いたんだろう…。北島マヤなのかな、見せてくれてありがたい…。実際にエゴンが拘置所で書いたような寂しさと決意の混じるような絵を確かに描いたんだろうなと思う。

僕は僕の絵を描いてやる、の歌のラスト、線描のダンサーに囲まれて、覚醒したみたいなきりっとした(と書くとなんだか軽すぎてもどかしい)顔つきになるところがすき。

・下手から見たとき、エゴンと背後に立つ死の幻影がその背中を見つめる姿が一緒にオペラグラスに入る画がとてつもない迫力だった。

 

第13場 裁判

・「どうして信じてくれないんだ!」「父さん!」の叫びが100点。声も表情も痛ましくて苦しくて、なのにどうしようもなく目が離せない。

・死の幻影に踊らされ、その不気味な指先に絡め取られ抱かれる細い身体に色香を感じてしまう。一方でギムナジウムの場面よりも抗おうとする目力が強くて、彩音さんのそれと拮抗しているように感じた。

・絵の焼却処分が言い渡された後、線描のダンサーが赤い布に絡まってぐったりしているのは、絵が燃やされてしまったことの表現なのかな。線描のダンサーたちの、表情の豊かさをもっとちゃんと見たかった。彼らだけを見つめる回をつくりたいくらいだったけど無理だった。

・セットの表側に引っ掛けられていた赤い布が、さらにその上にかけられたセットと同じ模様の布を線描のダンサーが静かに外すことによって現れるのがすごくよかった。キャンバスから火の手が上がるようにも、傷ついた皮膚から血が流れるようにも見えて、エゴンの痛みをより深く感じる。

・現実の人間たちはみんな階段形のセットの上で舞台の上と左右を縁取っていて、真ん中の平場にはエゴン(死の幻影と線描のダンサーもいるけど)だけがいるので、その孤独や不安がわかりやすいレイアウトだった。

・第11〜13場のスピード感や静と動のメリハリ、舞台上の画の抽象化具合やレイアウトがすごく好みだったし、なにより彩海さんのお芝居がめちゃくちゃよかった…千秋楽の熱演が映像に残って欲しかったなあ。

 

第2幕 第1場 ウィーンのパーティ

・夢奈さんと踊る乃々れいあちゃんがかわいくて綺麗でずっと見ていた。

・登場する主役に注目させる演出って難しいのだなと…ギャツビーの最初の登場を銃声とともにしたり、アイスキャッスルで下手から上手に群衆の振付によって自然に上手のギャツビーに誘導する小池さんの演出はすごいんだなあと思った。

・「やめてくれ!」の悲壮感よ。

・レスラーさんに八つ当たりするエゴン、ダメなやつだけど明らかに甘えていて愛おしくなってしまう。

・「僕を見てくれたのは…ヴァリだけだ」この…の溜めがすごくよくて、孤独、悔しさ、怒り、縋るようなヴァリへの想い、、観劇のたびに複雑に受け取れるように感じた

・アデーレ(菜々野ありさん)、エディト(花妃舞音さん)と順番にワルツを踊りながら少しずつ機嫌をよくしていくエゴンの表情の変化がさりげなくて、でも鮮やかだった。ふたりの手を取り腰を抱く所作が指先まできれいで、エゴンのどうしようもない育ちの良さが滲むのが美しくてかなしかった。

 

第2場A 帰り道

・「画家も立派な仕事よ」というエディトは社会にも家族にも認めてもらえていないエゴンにとって確かに救いだったのだろうけども、絵を描くことを仕事としか見ていないという浅い認識も透けて切ない。

・別れ際のエディトの鈴を転がすような笑い声が本当に可愛くて癒された。きっとエゴンにとってもそうだったのかなと思う。

・エゴンとヴァリのデュエットがすごく耳に心地よい。NOW ON STAGEで瑠皇さんがおすすめしてくれた「これからもずっと」で両手をぎゅっとするところも、「いまここに生きている」の楽しさがふわっと溢れるみたいな仕草もすきだった。でもヴァリの話をちゃんと聞いて!わかろうとして!と思わずにはいられない。

 

 

第3場 アントンとゲルティの結婚式

・とくに上手から見ると拳が当たっていないのがわかるはずなのに、何度観てもエゴンがアントンのことを本当に殴っているようで震えた。中の人たちはかなり朗らかそうなのに、殴り合い芝居がうますぎるのはどうしてなの。

・絵を描くことよりも愛と生活を選んだアントン。ヴァリはエゴンがそれをできないことを誰よりもわかっているからこそ、エゴンが自分をフィアンセとして堂々と家族に紹介してくれないこと、マリーに「こんな娘」と言われてしまうこと、倒れたマリーに差し伸べた手を振り払われることにも、それに傷つく自分にもっと傷ついているのかな、と彼女の哀しみを静かに深く感じるりりちゃんのお芝居がとても心に残った。

・妹の結婚式で最初から不機嫌を隠さず母を突き飛ばし新郎を殴りつけるエゴンのクズぶりを全力で表現する彩海さん本人とのギャップに驚きつつ、毎回律儀にヴァリと目を合わせてから席に着くところに中の人を薄っすら感じて勝手にぐっときていた。

 

 

第4場 路上

・「あなたはおめでとうも言っていないわ」というヴァリの台詞が実はこの脚本で一番くらいすき。誰よりも傷つきながら、エゴンの言動をずっと見つめていて、それでも周囲と自分の距離感を見失わない冷静なヴァリの在り方がよくわかる台詞だなと思って。

前場でクズぶりをぶちまけ自ら孤立を深めていることを知っているのに、僕は何者だ、と歌うエゴンの瞳からこぼれる一筋の涙を美しく感じてしまうのは、絵を描かかずには生きていられないという彼のどうしようもない真っ直ぐさを、暗闇の中で内側から燃えて輝くようなエゴンの苦しさを受け取らずにはいられないからだと思いたい。ただエゴンに共感するには業が深すぎる。

・死の幻影は、絵に己を捧げるエゴンの情熱が必ずしも周りも本人も幸せに導かない契機のたびに登場するのが、ままならない…。

召集令状を前に「何かの間違いです」の台詞あたりで浮かべる笑みの歪み具合が全然美しくなくて、現実を直視できないエゴンの表情としてすごく生々しかった。

 

 

第5場 ハルムス邸

・ヴァリがお茶会に来ないことを知ったエディトの返答が、公演を重ねるにつれて嬉しさを隠しきれない感じに聞こえて最高だった。まのんちゃんの、かわいさの中に人間らしい生々しさのある女の子の表現の絶妙さがすき。燈影のお壱ちゃんもすごくよかった。

・ハルムス夫人(梨花ますみさん)の押しの強さよ…!わがままエゴンも怯むレベルの人生経験の差に説得力があってさすがです。

 

 

第6場 クリムトのアトリエ

・「聞かれたくない話ばかりだ」と語るグスタフ、納得できすぎる。完全な白ではない、濁りのある暖かいグレーの色合いがやさしい。

・ヴァリの求めているものを"居場所"だと表現するグスタフの深いまなざしに癒されるし、それを選ばず、ひとりで生きてみる、と穏やかに決意するヴァリにも不思議と励まされる気持ちになった。

 

 

第7場 プラハの駐留所

・彩海さんの細い指に指輪が…!と初日から静かに興奮した。

・従軍へのエゴンの嫌そうさが観劇の度に増していてちょっと面白かった。

・エディトの縦ストライプのスカートはおそらくエゴンが描いた妻の肖像画の衣装を模したもので、スタッフさんのこだわりを感じてうれしかった。

・エゴンの日記を読むと、エディトのことも、その家族(とくに鉄道のお仕事をしていた義父を敬愛したらしい)にも愛情を持っていたように感じるので、この舞台作品におけるエディトまのんちゃんの役割が当て馬なのがただただ不憫。だけど、抱きつくエディトの背中を軽く叩いて身体を離すダメ仕草や、うんざりした表情など、見たことない彩海さんを引き出してくれて感謝…。

 

第8場 ヴァリからの手紙 / 死と乙女

・あの女のことは忘れて!と言われたばかりなのに、その女からの手紙をエディトの目の前で読むエゴン、最低さが一貫している。

・苦しむ兵士たちの間を揺蕩うように静かに舞う影の女たちの衣装がすごく素敵だった。

・舞台の端と端からの手を伸ばしあうエゴンとヴァリの振付、彩海さんの腕の長さが活きてよい。

・「僕が描くべきもの、それは何だ!」とエゴンが叫んだ瞬間に脳内に望海さんルートヴィヒがログインしてくるのはどうしてだったんだろう…(第九をつくるところ?)。ともかく鏡の奥の死の幻影とセットの上に一列に並んだ線描のダンサーが暗闇の中から浮かび上がる演出がめちゃくちゃかっこよくてぞくぞくした…そこから『死と乙女』の完成まで一気になだれこむところ、ベアタベアトリクスの『オフィーリア』の場面がすごく好きだったから期待して臨んだけど、期待以上の迫力と美しさだった。

・『死と乙女』を描きあげた瞬間のエゴンの顔が、また一幕ラスト並みになんとも評し難い表情で…!興奮しているようでも、自ら驚いているようでも、絵画の神様への畏怖の色も見えるような気もして、とにかく息を止めて必死に見つめた。そしてヴァリの死の知らせを受け取って変わる表情もまた、単純な絶望とは言い難くて、絵画の神様よりもっとおおきな何かへの畏怖なのか、死と表裏一体の命のいとなみを見つめる達観か、超個人的なかなしみなのか…グスタフと約束した「僕だけの世界」に到達したとき、見えた景色はおそらくかつて想像したものとは全く違ったのだろうなととにかく思った。

・エゴンと死の幻影が入れ替わる振付にプロローグを思い出してはっとした。

 

 

第9場 分離派展

・背中を見せて立つ死の幻影が、ほんの少し動くだけでエーリヒと会話してみせる違和感しかない存在感がすごい。

・展覧会を訪れている客の中に、幸せそうなアントンとゲルティがいることも、エゴンを賞賛する台詞を発する紳士の役が、叔父や父を演じた佳城さんだったり大楠さんだったりすることも、味わい深くてよかった。

 

 

第10場 遺されたアトリエ

死の幻影にかけられた布が取り払われると、天を仰ぐエゴンに入れ替わる演出がすきだった。呼吸の音まで聞こえる静寂のなかで歌い始める「死と乙女 君を抱く僕は まるで死の幻影」の声の静かな圧を息を顰めて見守った。とくに「幻影」の歌い方が闇に音が浮かぶみたいで、場面の美しさを視覚でも聴覚でも受け止められた気がしてとても印象に残った。

・あの大きな布はキャンバス(画布)なのかな。布が剥がされることで、世界が反転して死の幻影と同じ絵の中にエゴンも観客もいるみたいに感じるラストシーンだった。

・グスタフと約束した自分だけの世界にたどり着いたエゴンがみせるのが、達成感にあふれたわかりやすい笑顔ではなくて、寂しいような、人間の底を見るような、鋭い目つきであることが印象的だった。でもけして冷ややかではなく内側に燃える炎も感じて。『死と乙女』を描いた後、敵兵の捕虜の肖像を描いたとき、芸術家と社会をつなぐ場所をつくろうとしたとき、死の淵に立つ妻をデッサンしたときも、きっとあの静かなまなざしで、内なる炎を燃やし続けていたのだろうと思いたい。(元カノと自分の絵を描きそれが絶賛され、でも若くして亡くなりました、という本作の締め方があまり好みではなかった。だったらレスラーさんが書きたいのはエゴンがどういう人だったかではなくて、なぜ死と乙女を描いたのか、でよくない!?と思う)

・背中で終わるのがシンプルにうつくしくて、うれしいと思った。

 

フィナーレ

・フィナーレがあると知ったとき(タカラヅカニュースの稽古場情報を見たとき)でさえ、テレビの前でばんざいしたほど嬉しかったのに、幕が上がって夢奈さんたちの黒燕尾を見た時の興奮といったら!叫ばなくて偉かった。

月組の黒燕尾は力みの抜けたスタイリッシュなイメージがあり、下級生までまさにその印象通りの端正さで踊っていることに感動した…ら、その後真ん中に出てくる彩海さんがほんのり雪組の香りのする(とわたしが勝手に思っている)クラシカルさを発揮していて、ひとつひとつの振付がバッチバチにきまって、懐かしさや愛しさやときめきで胸がいっぱいになった。どちらもだいすき。

・ペア振りでまのんちゃんと踊るとき、わりときりりとした表情を崩さないのに、リフトで正面から見えづらいときにいちばん優しい微笑みがこぼれたことにぐっときた日があった。

・群舞ラストで三角形の隊形になるところ、端っこから見ると後ろの下級生まで立体的に見えて、その頂点にいる彩海さんの姿にあらためて感激した。

・デュエットダンス。登場した白河さんを迎えに行く彩海さんの指先まで溢れるやさしさと嬉しそうな笑顔が忘れられない。音楽が二幕2場の「君を愛してる」から8場の「君に会いたい」の曲をつなげたアレンジで、振付も跳ねるようなかわいらしい雰囲気から、互いに求め合うような熱情を感じるラストまでグラデーションになっているのがすごくよかった。新人公演を卒業したタイミングの、今の彩海さんと白河さんだからこその瑞々しさと色香をたっぷり味わえてうれしい。

・カーテンコールの彩海さんの挨拶が毎回かわいすぎて、この作品のエゴンは絵の才能の代わりに周りを幸せにする力を持たなかった人だけど、演じ切った彩海さん自身は、ひとを幸せにする力に溢れた方だなと振り返って感じている。千秋楽では達成感に溢れた晴れやかさと自信のようなものを感じて、涙を期待してしまっていた自分を殴りたい。最後の瞬間まで、これからの彩海さんの舞台姿への期待が高まった。

 

 

おわり。

 

月組『月の燈影』をみた②

二幕いきます。

 

第二幕

第十一場 川向う・深川富岡八幡宮の境内

初演にはなかった、5年前の祭禮で淀辰の下にいた頃の幸蔵が木遣り歌を歌うシーンが追加されているのだけど、主演の見せ場としてだけではなくて、お勝の弟としての幸蔵の人物像、川向うに流れてきた若者を嵌める淀辰の手口がわかりやすくなり、そして薄ら衆道の入口の香りも漂って、物語の奥行きが増したように感じられた。弟であることが強調される描き方も、どこかあどけなさが漂う礼華さんの幸蔵の危うさが際立ってしっくりくる。
おゑんさんと六八だけが時空の間に立って、照明の明るさと色温度が高くなることで、今(冒頭の9年前、二幕頭の5年後)の祭礼に切り替わるシンプルな演出も面白い。
5年前の幸蔵と同じ木遣り歌を歌う次郎吉の声がふわぁーとバウホールの空間に広がるのが本当に気持ちよくて。伏し目がちに喜の字と視線を交わしながら踊るのも、簪を渡した後のふたりとしての情感があってとてもすきだった。
曲の合間に喜の字が文字春に連れ去られるところで、他の御祭禮の男たちに混じって上がる掛け声が楽しそうなのと、伸ばした指先の滑らかな動きも綺麗でずっと見ていたくなった。あと、妃純のねえさんに「かわいい兄あだね」って言われるところになぜか私が照れた。前回のDeep Sea で少しだけ組んでいたことを思い出しつつ…
見せ方の順番は逆だけど、おゑんさんは次郎吉の木遣り唄を聞いて、5年前の八幡祭を思い出しているのか…と思い至ったとき、さっちゃんとじろちゃんとしてふたりで重ねた月日がたしかにあったことを感じて苦しくなった。

 

 

 

第十二場 川向う・両国回向院の賭場

ひとり三味線を爪弾く幸蔵、その背中をいとしそうに見つめるお壱ちゃん、夕暮れ色の照明と、ひぐらしの鳴く声…何度観てもうつくしい場面だった。
この場面で明らかになる幸蔵=幸と次郎吉の関係性がもう…
優しく冷静で頼りになる兄貴分の幸、真っ直ぐで感情表現の豊かな弟分の次郎吉、というそれぞれのキャラクターはここまでの物語で必要十分に描かれているけど、他人の痛みに敏感で、その辛さを自分から背負い込んでしまうような次郎吉に、実は幸の方こそが依存していること、そしてそれを幸自身が自覚していることが、台詞だけじゃなくて礼華さんの表情の歪みや熱の篭った声色や苦しげな眼差しや…全身から伝わってきてたまらなかった。
加えてまりんさん丑右衛門さんのあったかさといったら…!兄弟のように戯れ合う二人を、きっと本人たちさえ当時は自覚できていなかったかもしれない依存関係を含めて、ずっと見守り続けた人情の厚さや懐の深さ、火消しの頭としての経験や人間の豊かさ…二人に向けられる重みのあるあたたかさに、観劇を重ねるほどに泣けてしまった。
それから、丑右衛門さんと大八木さんの言葉を聞いて川向うの人間への差別に震えながら憤ったり、思わず「あちしたちよりしろきちの方が大切かい?」と聞いてしまったりするお壱ちゃんがもういじらしくて…!悔しさや、それでも変わらないすきの気持ちの滲ませ方がとてもよくて…舞音ちゃんの健気なお芝居が心からすき。
淀辰に連れ去られた喜の字を助けようと幸蔵が立ち上がるのは、次郎吉を川向うの仕掛けに巻き込みたくないことに加えて、新助の姉である喜の字に死なせてしまったお勝さんを重ねているからというのも上手なお話の運びだなーと思う。
 

 

第十三場 川向う・本所の裏路地

芳三と三吉とおとせちゃんが毎回アドリブで会話しながら仲良く出てくるのがかわいかった。でもここが楽しそうなほど、この日常を奪おうとする淀辰の非道さが際立つ…。
伊七を演じる真弘さんのお芝居も、かつての仲間を脅す口ぶりに、これ以上の失敗で居場所を失えないという追い詰められた焦りが滲んでいてよかった。


 

第十四場A 川向う・深川佐賀町の塒

天愛さんの文字春も、喜の字への意地悪い迫り方のなかに伊七と同じく淀辰に取り入りたい必死さが透けていて上手だなーと思うし、悪役として描かれる人にも川向うでしか生きていけないどうしようもなさがそれぞれにあるのが見えると、この物語の湿度が増してより作品として密度があがるなーと感じる
そんな人たちの中でひとり腹の底のみえない六八(蘭尚樹さん)が怖かった…ふわふわへらへらした動きの中でさっと扇子を首の裏にしまう不思議な玄人感とか。


 

第十四場B 川向う・両国回向院の賭場

「思い出を追っても時は戻らない」とか、「重ねた月日に汚れたこの身」とか(あいまい)、客席から登場しながら幸蔵の歌う詩が切ないのと、幸蔵の仮面が剥がれかけた揺らぎのある表情の覗く礼華さんがすごく魅力的だった。
同じメロディを次郎吉は、紫陽花の色が移り変わっても、あの日と同じ夏の香りが漂う、と歌い継いでいて、川向うで変わってしまった自分を嘆く幸蔵の変わらない内側を真っ直ぐ見つめているのが五感で伝わるような深くてやさしい歌声だった。初演では次郎吉がひとりで歌う曲だったけど、素敵な改変だなと思った。
しかし客席降りしてくれてる礼華さんには申し訳ないと思いつつ、舞台の真ん中で照明が着く直前にスタンバイする次郎吉をみることをやめられなかったことをここに告白します(羽織を肩にかける仕草と厳しい表情が薄闇の中に浮かぶのがかっこよくて…)。
恋敵の次郎吉に突き放すような態度をとるお壱ちゃんだけど、幸蔵の助けになりたいと思っている強さや必死さも見えるのがたまらなかった。舞音ちゃんお壱の健気なお芝居がとってもすき(2回目)。
そんなお壱ちゃんにぬり壁呼ばわりされるてらくん粂八の説得力もよい(大きさはもちろん強そうなのにとぼけた存在感があるのがすき)。


 

第十五場 川向う・深川永代寺門前仲町の料理茶屋

気だるげに三味線を弾くおゑんさんの艶っぽいこと!この先の未来を見通したうえで何もしない冷えた存在感があった。NOW ON STAGEで天紫さんがおゑんさんについて「川向うの女の縦社会を感じる」とお話していたのがすごくわかる。喜の字を無事に手に入れて余裕をこいているような淀辰や文字春の様子を見ていると、女だけのくくりを超えて、淀辰よりもてっぺんにいる人なのかもしれないと感じる。
喜の字は新助と同じく姉弟二人をはめたのは幸蔵だと思っていたはずなので、名前を聞いてまず不審そうな顔をするのが、幸蔵とおゑんさんの会話を聞きながら、次郎吉がきらきらと語っていたさっちゃんについての情報と一致していくので信頼に至る、繊細な天紫さんのお芝居もよかった。(姉の存在、木戸働の倅であること、そして中村座で仕込まれた三味線…「高くつくぜ!」の台詞のかっこよさになんて上手い脚本なんだーと唸った。)


 

第十六場 川向う・元番所

第二場がリフレインするようなコロスの演出にはらはらする気持ちが高まる。
幸蔵が喜の字の手首をつかんでいるのに対して、粂八がお壱ちゃんとしっかり手を握っていることにこっそり(いや客席中みんなしてたと思うけど)きゅんとしていました。
 


第十七場 川向う・向両国の広小路

彩路さん三吉のお芝居がよかった…!
川向こうでしか生きられない、あの場にいる次郎吉以外の全員分のやるせなさを爆発させていて、幸蔵の抱えている苦しさの重みをその分だけ感じた。あと、三吉たち通り者の生きづらさについては、初演の映像では私の想像が及ばなかった部分だったので、ひとりひとりの熱量に生で触れて初めてぐっときたところ。観劇の醍醐味を味合わせてもらいました。

「俺はここより他に生きる場所を失った、でもおめえは違う、おめえはまだ手前の力で生きていく場所を見つけることができる」と幸蔵に言われるところで、次郎吉が瞬きせず真っ直ぐ幸蔵を見つめているのがすごく印象的だった(何回か観劇して一度も瞬きしていなかったから、意図的なのだと思う)。あんまり透明できれいな瞳で見つめるものだから、目を逸らして「俺のことは忘れるんだ」と叫ぶ幸ちゃんが余計に痛々しかった。この幸ちゃんの台詞を受けた次郎吉の返答が、幸蔵に襲いかかる伊七を切りつけ自らも手を汚し、腹から血を流しながら言う「約束したじゃねえか、手前の力で生きていける場所を一緒に探そうって」の言葉と行動とそして笑顔で、近くにいてほしい、という幸ちゃんの本当の願いや寂しさ、孤独に自分の全てを賭けて寄り添おうとする彩海さんの次郎吉の底知れないやさしさに、畏怖に近い気持ちが湧いた。
あと、幸ちゃんにようやく「じろちゃん」と呼んでもらえてから呟く、「仕方ねえよな」の言い方がふいに重く心に響いた日があって。文脈的には次郎吉自身に対する台詞なんだけど、(もはや妄想だけども)何も言わずに姿を消したこと、約束を反故にしたこと、再会してしまったこと、川向こうの仕掛けに巻き込んだこと、何もかもを後悔しているかもしれない幸に対して、自分を許していいんだよ、と伝えているようにも聞こえた。

そのやさしさは喜の字にも新助にも向けられる。致命傷を負っているのに、喜の字に呼びかけられて、おう、と軽い返事をしながらさっと笑顔をつくったり、新助にも責めるどころかその心を癒そうとでもするように笑いながら「いてえじゃねえか」と言えてしまう。深すぎるやさしさを軽やかな笑顔で包んで相手にそっと届けるような次郎吉の生き方は、見守っているのが苦しすぎる(丑右衛門さんへの共感の思いがむくむくと湧く…)。

新助に次郎吉が刺されてしまう瞬間、客席から驚いたような吐息が少なからず漏れ聞こえてきたけど、個人的なハイライトは刺されたことよりも腹に刺さった刃物を自ら抜くところと、伊七を切りつけた後、周りが慌ただしくなるなかひとり倒れ込んで肩で息をしている表情のない横顔だった。刺さった刃物の柄を掴む指への力の込め方や漏れる吐息、抜いた瞬間に全身の力が一瞬抜けたような体制の崩れ方、倒れた後に自分から流れる血を少し確認するような視線の動かし方、肩の不規則な上下の動き…見つめていてこちらが痛みや苦しさを感じてしまうほどお芝居が細かくてぞっとした…。次郎吉が自分自身の痛み(物理的な痛みも、死に触れてしまった心の痛みもきっと)に向き合っているのってこの一瞬だけのような気がする。
 
苦しげというよりは遠のく意識を繋ぎ止めながら、最期まで幸に笑顔を向け続けて、ろうそくの炎が消えるみたいにすうっと訪れる死の静かさが、蘭寿さんの次郎吉で感じたドラマチックさとは違って、無性に哀しかった。
下手前方席から観たとき、亡くなった次郎吉を抱く喜の字が、さらに背景の大きな月に包まれているように見える視界があまりに美しくて、終演後に隣に座っていた友人とピエタみたいだったね…と語り合った。忘れられない画だった。

初演の映像をみて、沢樹くるみさん演じる喜の字が、淀辰が現れた瞬間に次郎吉の身体を抱く腕にさらにぎゅっと力をこめていて、それが次郎吉を守るようにも縋っているようにも見えてぐっときたのですが、天紫さんは淀辰の登場にもその後の幸蔵の殺陣にすらほとんど動じていないというか意識が向いていない様子で、冷えていく次郎吉の身体の最後のぬくもりを抱きながら、ひとり喪失と向き合っているように見えてとても切なかった。
淀辰を殺めた幸蔵もまた、次郎吉の亡き骸を最後にひたと見つめるのが苦しい。
次郎吉を通して辛うじてつながっていた江戸=表の世界とのつながりが完全に切れたことを確認するような、共に生きるという約束を守って逝った次郎吉から何かを受け取るような、川向うという裏の世界を産んだ世の中の仕組みそのものへ復習を誓うような一瞬のまなざしに、ぞくりとした。

千秋楽は、彩海さんが大きな瞳から涙をたくさん溢れさせながらの熱演で、息を引き取った後に濡れたままの次郎吉の頬がスポットライトを眩く反射して、内側から発光しているようにも見えて…この世の人ではないみたいにきれいで(死んでるけど)、幸にとっても喜の字にとっても、光そのものみたいなひとだった、ということが千秋楽にしてとても胸に迫った。


 

第十八場 追想

初日の開演前にプログラムを開いて、「幸蔵(少年)、次郎吉(少年)」という文字を見ただけでもう苦しくなってしまったシーン。少年時代の次郎吉を演じる蘭叶みりさんが、幸に向けても、ひとりで三味線を弾きながらもずーっとにこにこしていて、次郎吉の幼い頃の役づくりとしての意志を感じてよかった。
(少年)という役名ではあるけれど、丑右衛門さんや喜の字と会話を交わして、でもやはり過去としてお勝さんに「幸ちゃん」と呼びかけられ、くるりと半回転すると幸蔵=フィナーレの男S、次郎吉=フィナーレの男Aが現れフィナーレになだれ込む、時空も役割も軽やかに越えていく舞台ならでは、宝塚ならではの演出がたまらなくすき!!!
 
幸と次郎吉のデュエットダンス(本人たち談)は、男役と娘役のデュエットダンスさながら二人で息を合わせて踊ろうとしているのが伝わってきゅんとした(初日の方が緊張感があって踊り自体はぴったり揃っていて、公演を重ねるほど振りを揃えることよりもお互いを感じることに重きをおいているのかな、となんとなく感じた)。本編とは反対に、礼華さんの方が頬を緩めた朗らかな笑顔をこぼしていて、彩海さんの方がそれを見守るような慈悲深い感じの微笑みを浮かべていたのが印象的だった。
礼華さんと娘役さんたちの踊りは、ひとりずつ役の延長のように礼華さんと振りや視線を交わすのが、彩吹さんらしいやさしい愛のある振付だなと思った。それぞれに相対する礼華さんの、蕾がほどけるような笑顔が本当に無理がなく自然で素敵。個人的にはここで真ん中にいる幸蔵に弟属性をとても感じた。
次郎吉と喜の字のデュエットダンスは、第十場の簪の場面や第十七場のピエタの場面と同じ大きな月を背にしていて、その画だけで泣けてしまう…。NOW ON STAGEで少しずつ体温を上げられるようにがんばりたいと話していたけれど、踊りを通して交わし合うふたりの思慕の念が観劇のたびに濃くなるようにみえて、彩海さんの漢気や色気がぐんぐん増していくのでときめきを通り越して動揺してしまった。成長著しいにも程がある。差し出す手はやさしいのに身体に触れるときには思いがけないくらい力が籠ってみえるな、とか、伏し目で相手を捉える視線の動きとか、ちゃんと憶えておきたいな。
そして火消しダンス!初演の映像がものすごく印象的だったので、再演で観ることができて感激でした。客席から手拍子が湧くと明らかに笑顔が濃くなる礼華さんがかわいすぎた。実は………礼華さんの投げる手ぬぐいをゲットしてしまったのですが、飛んできたそれを見上げた時の、手ぬぐい越しのミラーボールが輝いていた景色がなぜか忘れられない(もっと憶えておきたい景色があるのに!)。

パレードは初演と全く同じ音楽と振付で、先に出てきた次郎吉が喜の字を迎えに行って手を取る演出がとっても素敵だったので、彩海さんと天紫さんで観られて嬉しかった。最後に登場する礼華さんを迎える前に、位置についた天紫さんの準備が整うまで律儀に見守る彩海さんがすき。出演者同士がそれぞれ半分役としてふざけたり笑いあっているのもよくて、隅々まで認識しきれない自分の視界が悔しかった…!千秋楽ではパレードで彩海さんが涙を一筋流していて、顔を見合わせた礼華さんが少し驚きながら笑い合っている景色が本当にきらめいて見えた。



人が居場所をつくる
この物語のなかで、幸蔵は自分の生きる場所を探し求めている。川向うでしか生きられないと言いながら。そして幸蔵が築いた両国のまちを、お壱や三吉たち通り者仲間は居場所だと信じて、どうにか守りたいと思っている。
本当は、そこが川向うか両国かどうかは関係なくて、幸にとっての次郎吉、通り者たちにとっての幸蔵が居場所そのものだったのではないかと思う。だけど、住んでいる場所や職業による差別、一度のしくじりで元に戻れなくなるセーフティネットの弱さ、弱者を踏みにじりながら甘い汁を吸い続ける権力者…といった社会の構造が、そのささやかな居場所を簡単に壊してしまう。
幸蔵が鼠小僧次郎吉として挑んだ本当の悪は、淀辰ではなく淀辰を生んだ社会の構造だったのだと思う。これは江戸時代の話だけど、現代にも当てはまる普遍的な問題。誰かの居場所をつくり守るやさしさと強さをどうしたら私も持てるだろうと、観劇後も考えています。
 

 

礼華さんの幸蔵と彩海さんの次郎吉のこと 

硬派でクールな幸蔵と、人懐っこくて明るい次郎吉の兄と弟、静と動、硬と柔の対比がとても鮮やかに描かれているけれど、これまでの舞台やスカイステージなどを観ていると中の人は逆なのかも、と感じる。

少し前のタカラヅカニュースのコーナーで「(自分は)太陽と月、どちらのタイプか」、という質問に礼華さんは太陽、彩海さんは月と答えていたのが印象的で。
しゅっとしてみえるのに明るくひょうきんな性格が覗く礼華さんは、男役として立派な体格をもちながらどこかあどけない表情がこぼれるギャップがあって、舞台上で本来の自分を曝け出すことに躊躇がなさそうなおおらかさが魅力的。
一方、自称人見知りでコミュニケーションにおいてはどちらかというと受け身な印象のある彩海さんは、華奢で可愛らしい顔立ちに中性的で華やかな雰囲気をもちながら、こつこつ積み重ねたものを舞台上で120%発揮できる胆力とスキのなさを感じる。
そんな中の人ふたりの違いが、幸蔵と次郎吉の裏側のキャラクターに重なるように見えて、人物に奥行きを(まあ勝手にではあるけれど)生んでいてすごくよかった。

彩吹さんの幸蔵はどこまでも冷静で、次郎吉を失うという最悪のパターンをはじめから想定して、なんとか回避しようとひとりもがいていた印象がある一方、礼華さんの幸蔵はもう少し幼くて繊細でだからこそ楽観的で、逆に次郎吉の方が初めから腹を括っているようで、初演と再演で次郎吉を失って幸蔵が味わう絶望の色が少し違ってみえた。

大切な人からなにも奪いたくなかった幸と、大切な人だからすべてを差し出すことができた次郎吉と。どちらも哀しくて愛しい。

 

 

 

こんなに素晴らしい作品を見せてくれた出演者のみなさんや、先生方の未来もまた素晴らしいものでありますように。
 
そして、、、一昨日演目発表のあった、彩海さんと熊倉先生の産み出すエゴン・シーレ、めちゃくちゃ楽しみです。バウ主演、本当におめでたくてうれしい!

月組『月の燈影』をみた①

"川開きのお花火と同じさ 瞬く間に消えちまったとしても 剛気で眩くって 瞼に焼き付いて離れやしない"

 

ラストシーンの喜の字の台詞を何度でも噛み締めたくなるような、一生忘れられない作品になりました。

 

宝塚を観劇し始めてから初めて、ひとりのスターさんにこのひと!と心を奪われたのが彩吹真央さん。

だけどその時はもう退団間際だったため、卒業前に吟味して購入したDVDが『月の燈影』でした。

このたび再演が決まり、さらにいま夢中になっている彩海さんが次郎吉を演じることが発表された日、『海辺のストルーエンセ』観劇帰りの東横線の車中で思わず飛び上がってしまったのを今でも鮮明に覚えています。

 

でかすぎる期待を勝手に抱えて迎えた2023年版『月の燈影』…もう何もかもが素晴らしかった。

まず脚本について、幸蔵と次郎吉のダブル主演だった初演版を大切にしながら、最小限の追加や変更で幸蔵が物語の主軸として違和感なく見えたのも見事だし

演出や振付もほとんど初演のままなので、当時振付をされた峰さを理さんの想いも、今回演技指導・振付に入った彩吹さんを通してそのまま引き継がれているように感じられてぐっときた。

演者のみなさんもひとりひとりに拍手を送りたいほど、全身で江戸の湿度の高い薄闇の世界を体現されていて、ベテラン勢と若手の熱量のバランスがちょうどよく、物語のしっかりした重みと観劇後にどこか明るさを感じさせてくれるような気がした。

そして、幸蔵(礼華はるさん)と次郎吉(彩海せらさん)の持ち味の違いが、物語上での関係性に奥行きをもたらしていて、さらに次郎吉という役を通して、かわいいからかっこいいまでいろいろな彩海さんの表情や声色に出会えたことが期待以上に嬉しく、言葉に尽くせないほど感動しました。

 

 

未来の自分のために、劇場でみたもの、感じたものをなるべくそのまま書き留めておきたいと思ったので、場面ごとにいきます。

※次郎吉、彩海さんのことばかり話しています。

 

 

第一幕

第一場 序章

紗幕の後ろで月明かりの下ひとり舞う喜の字(天紫珠李さん)の美しいこと!

結末を知ってからこの踊りを観ると、本編から9年後の喜の字が、どのような想いと思い出を抱えて芸者を続けているのか想像して幕開きから切なくなる。強くてかっこいいひとだ。

続く三味線の音と、4人の艶やかな芸者さんたちが一気に江戸の町の夜に連れて行ってくれる。同心である大八木(春海ゆうさん)と橋本佐内(柊木絢斗さん)の会話から、二人の立場からするとめでたく悪人=鼠小僧次郎吉を捉えた祝いの宴が開かれている夜であることがわかるのに、大八木さんの苦々しげな様子からこれから始まる物語への興味が惹きつけられてよい。

この場面で登場する辰巳芸者の元吉(咲彩いちごさん)は、ここでは本編の9年後で、ちゃんと芸者として人として成長しているのがお壱さんを庇う振る舞いや仕草にみえるのがすごい。でもああして芸者を続けていると言うことは当然に新助と一緒にはなれなかったんだな…と突きつけられて切ない。

 

 

第二場 プロローグ

大八木さんが9年前を語りかけるモノローグから始まるプロローグ。歌と踊りで表現されるこの場が、9年前と呼ばれた本編よりも前のできごと(兄弟のように育ったという幸蔵と次郎吉が離れ離れになってしまい、お互いの面影を求め続けていること)を表してるのが初見では少しだけ伝わりにくいかも。けど、全編通して時間の行き来が結構自由なところが、舞台ならではで、繰り返し見るたびに唸ってました。

咲き乱れる紫陽花を背景に登場する幸蔵(礼華はるさん)。スポットライトが当たる前のシルエットがもうかっこいい。背が高くてガタイがいいってすばらしい。

幸蔵を追いかけるように飛び出してくる次郎吉(彩海せらさん)。華奢な見た目を裏切るような、低めの柔らかい歌声がバウホールの劇場中を満たすのに、胸がいっぱいになった。(さらに星逢一夜の源太の着物を着ていることにもびっくりして、初日は泣きそうに…)「伝えたい 信じていることを」の歌詞が、傷ついた他者への次郎吉の寄り添い方を表しているようでとてもすきです。

ふたりそれぞれのソロ歌唱の後、次郎吉が差し伸べた両手を幸蔵が握り返してくるくると踊り始めるのだけど、前方席で観た時、ぱしん!と音がするほど強く握りしめていることに気づいてそれだけで涙腺が緩んだ。次郎吉の笑顔が本当にかわいくて、真っ直ぐに幸蔵を見つめる瞳に信頼感が満ち満ちていて、そりゃあクールな幸蔵さんの頬も緩むよね。

そうそう、礼華さんの笑顔は、頬が緩む、という言い方が個人的にしっくりきていて、つくり込みすぎてなくて自然で、見せてもらえるとこちらも嬉しくなっちゃう。

あと、幸蔵や次郎吉の行手や視界を阻むコロスの演出がすごくいい(第十六場も同じくよい)。歩もうする道や人の心を見えなくしたり阻んだり、開いたりするのも、結局は人なのだという気がする。

 

 

第三場 江戸・霊岸嶋新川大神宮の境内

暗闇にひとり残される次郎吉の切ない表情から、火消し仲間の筆松(水城あおいさん)に呼びかけられて、まさに兄いと呼ばれる説得力のある頼もしい笑顔に変わるまでの表情のグラデーションがすごくよかった。いつも人に囲まれて笑顔を絶やさない男の子がひとりでいるときの表情を覗き見てしまったような…さっと隠れてしまうほんとうの顔の儚さにどきっとした。いつだって誰かの呼びかけに、おう、と軽やかに笑顔で応えるひとなんだよね、じろさんは…。

プロローグ終わり→「兄い」「おう」→火消しの揃いの羽織を肩にかけられて、着る→連れ去られた火消し仲間の妹を助けに行く、という本編のお芝居の始まり方がミニマムで好き。

火消しの頭としての存在感に説得力がありすぎる丑右衛門(悠真倫さん)に対峙する文字春(天愛るりあさん)が全然負けてなくて驚いた。芸者としての色気や勝ち気さが見えるし、難しそうな台詞回しも滑らかに耳に入ってくる。

ここで文字春や伊七(真弘蓮さん)の言動に細かく反応して、眉を顰めたり頭に嗜められて息をつきながら襟を正したり帯に手をかけたり、ひとつひとつの仕草に火消しらしい短気さと火消し社会の上下関係が滲む彩海さんのお芝居がすきだー。

伊七が懐刀を抜いた途端、丑右衛門さんを庇うように前に立ち塞がりつつ笑いながら啖呵を切る次郎吉がかっこいい。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように、当たり前に喧嘩が強いのにもときめいた。伊七の振りかざす刃物を羽織で受けて腕を掴んだり、隙をついてお橘(澪花えりささん)を助け出したり…振り回した羽織を払う仕草に江戸の街の砂埃を勝手に感じていました。

彩海さんの滑舌や口跡のよさが活きているような江戸ことばだけど、タカラヅカニュースや歌劇の鼎談から察するに身体に馴染むまで相当苦労したのかもしれない…。

立ち回りの最後に登場する幸蔵さんのリーダー感!さらにでっかい粂八(大楠てらさん)やちょっと年上そうでいかにも触れたら切れそうな芳三(空城ゆうさん)を従えている説得力。なのに、次郎吉と目を合わせて動揺が一瞬だけ走るのがちゃんと見えて、いいなと思いました。

 

 

第四場 江戸・永代橋西詰の袂

文字春さんがかっこよすぎた。

ここで文字春、丑右衛門、途中から出てくる大八木さんの会話で、川向うという場所の治安やそこに生きる幸蔵や通り者たちの立ち位置を最小限に説明しているのが上手い(脚本も、それを説明台詞とわからないニュアンスでリズム良く会話する役者のお三方も…天愛るりあちゃん、こんなに素敵な役者さんだったのね…!)。ここの会話から歌に一気になだれ込む流れもわくわくする!そしてただ治安が悪いのではなくて、江戸の権力者たちの汚いお金や欲望が淀辰(夏美ようさん)という謎の人物に集まっていること、どうにも手を出せない大八木さんたち下っ端役人のもどかしさが示唆されるのも面白い。

 

 

第五場 川向う・永代橋東詰の袂

ここまでもここからも、場面転換が本当になめらか…!

通り者たちが一列に並んで、三歩進んで一歩下がるだけみたいなシンプルな振り付けがたまらなくかっこいいのはなぜでしょう。このメンバーの中に男役さんたちだけじゃなくてお壱(花妃舞音さん)とおとせ(静音ほたるさん)の娘役さん二人が楽しそうに混じっているのもすき。ふたりは博打打ちじゃなくて、巾着切り=スリが生業で情報通という設定なのも随所に効いている。真ん中の幸蔵が、仲間に囲まれて笑顔を浮かべつつ、それなりにいきいきとこの場所で暮らしているのがわかるのも、後々仲間たちから向けられる思いを考えるとぐっとくる。

ここに「あらよっと」と空気を読まず飛び出てくる次郎吉の清涼な明るさと、「兄いを幸ちゃんって呼ぶな!」と叫び続ける粂八の噛み合ってなさが絶妙ですきです。誰よりもでかいし刺青まで入ってる粂八、に怯まず襟を掴みかかる次郎吉、に近所の犬に似ているからと「しろきち」と呼びかけながら幸蔵の行き先を教えちゃうお壱ちゃん。みんなかわいくて愛おしいと感じるのは、大野先生の意図通りなのだと思う。川向うに生きていても、次郎吉と同じように幸蔵を慕いながら、自分たちの世界の中でただ日々を生きている普通の若者たちなんだよね…。

 

 

第六場 川向う・深川永代寺門前仲町の料理茶屋

不機嫌を隠さず六八を顎で使うおゑん(梨花ますみさん)、緊張感のあるお座敷の中でもどこか余裕を感じる蝶之助(妃純凛さん)、襖をぱしんと開けて紫陽花を背景に登場する喜の字…女性陣がひたすら凛と美しくかっこいい。幸蔵を追いかけてお座敷に乱入する次郎吉が、ちゃっかり喜の字に一目惚れしているのも、淀辰の手下に幸蔵と間違えられてアニメみたいに顔だけにスポットライトを浴びながら言う「ちがうよ?」も、べたにかわいくてすき。

 

 

第七場 川向う・深川富岡八幡宮の境内

淀辰はっちさんが幸蔵の身体をいちいち触るのが、もういやらしくてだめです。もう一度仲間にならないか?という淀辰の誘いに対して、「断る」と発する台詞までの間を結構たっぷりとっていて、緊張感があってよかった。礼華さん、沈黙を恐れない勇気があるな。

和真あさ乃さん演じる淀辰の手下、きっとこの頃は淀辰に可愛がられていて、意味深なぴりぴりを幸蔵に向けていて存在感があった。かつての幸蔵も同じように可愛がられて、でも和真くんのようには懐かない勘の良さ、用心深さを淀辰は気に入ってるのかなとか、淀辰にとっての幸蔵の唯一無二さを逆に想像させてくれて、よいお芝居だった。

紗幕の後ろで幸蔵の姉、お勝(麗泉里さん)が踊り、幸蔵がひとりつぶやくように唄う曲の「誰かと分かち合う夢さえ 失われ 紫陽花の花の色 留めようもなく」の歌詞も、「また夏が来たよ、姉さん。」の台詞も切なくて…。礼華さん幸蔵の表情にどこかあどけなさがあるのも胸を揺さぶる。

 

 

第八場 川向う・深川佐賀町の塒

喜の字の弟、新助(一輝翔琉さん)の「お、(雨が)上がったみたいだ」の明るい台詞に、川向うの日常にある眩しい梅雨晴れのうつくしさが感じられていいなと思った。(この姉弟二人にとってのじろさんは、梅雨晴れそのものだったのかもしれない…)

訪ねてきた姉の喜の字に投げかける新助の台詞が毎回アドリブで、甘えるみたいに自由に振る舞う新助が可愛かったのだけど、前楽で、

 喜の字:弟を心配してこうしてお姉さまが来ているんだ。もっと嬉しそうにしたらどうなのさ。

 新助:じろさんに会いに来てるんだろ!

とぶっこんできてびっくり。

慌てる喜の字も、「何を言いやがる!」とちゃんと江戸ことばで返しながらその後弾く三味線がいつも以上にめちゃくちゃだった次郎吉も、微笑む蝶之助さんも元吉ちゃんも、みんなかわいくて最高でした。

わかさま、やるな。

この場面の会話で、次郎吉が幸ちゃんと芝居小屋で共に育ったこと、幸ちゃんが三味線を得意としていることが喜の字にさりげなく説明されているのが、後で活かされるのも脚本が上手い…。そして幸ちゃんについて楽しげに話す次郎吉のきらきらした瞳がたまらないよ…。

あと、喜の字と次郎吉、元吉と新助、恋する男女それぞれの別れ際のお芝居がとてもよくて、にやにやしちゃう。喜の字と次郎吉のカップルの方がちゃんと大人なのに、恋の始まりの初々しさはどんな二人でも同じようにうつくしくて素敵なものだな、と思う。4人のお芝居の呼吸もうきうきした声色も、喜びがこぼれている笑顔も、すごくすごくよかった。

 

 喜の字:じゃあね、じろさん。あばえ。

 次郎吉:あばよ。

 喜の字:見つかるといいね、幸ちゃん。

 次郎吉:おう。

 

 元吉:ごめんください。

 新助:ごめんください。また来てね、元吉ちゃん!

 

…文字だけでもときめく!

 

 

第九場 川向う・両国回向院の賭場

幸蔵が仕切る賭場に行ってみようと誘う新助と次郎吉の歌~通り者たちの賭場ソング、リーダー幸蔵の登場までの音楽と流れがすごくすき。(わかさま新助があんまり無邪気でかわいいので、じゃれつかれる次郎吉が大人びて見えるのもよかった。曲中で丁半のやり方を教えたり、絡まれた通り者の間に入ったり、びびった新助に袖を掴まれて振り払ったり…じろさんもそれなりに遊びや喧嘩を知っている大人なのが垣間見えて最高です。)

ここで幸蔵が着ている茶色い着物の裏地が鮮やかな青なのが粋でかっこいい。

賭場の仕切りに文句をつけるとどんな目に遭うかを次郎吉と新助にわからせるくだりが初演と変わっていたけど、幸蔵を主役に描く以外の変更が他にほぼないので、なんでここを変えたんだろう…とちょっと面白く観ていた。(川の中よりも火の中に放り込む方があまりにも残忍すぎるから…?)

 

 

第十場 川向う・向両国の広小路

芸者三人の川開きの歌から始まる一幕最後のこの場、最初から最後まですきすぎる。

ここでふらふら登場する新助に続いて出てくる次郎吉が、団子屋の店先にいる大八木さんと丑右衛門さんを見つけてさっと挨拶するところが地味にすき。社会人をしている。あと丑右衛門さんに呼ばれて側でしゃがんだときのぴんと伸びた背中もすき。

幸蔵の事情にこれ以上踏み込むな、と言われて苛立ったように背中を向けるのに、元吉へ贈る簪を選ぶ新助の様子を察してお金を貸そうか声をかけるところ、感情の波を自分で鎮めてすぐ周りを気にかけることができるじろさんの大人加減がいい。

簪屋さんのえん蔵(朝陽つばささん)との会話も粋で素敵。気に入った細工の簪の値段を聞いて、「おう。それだけの値打ちはあらあな。」なんて言われたら、作った人も売る人も嬉しいよね。(次郎吉の求めた簪の作者がえん蔵さんのお父さんで、つまりえん蔵さんは親の仕事を継いでいて、隣でお団子を売る妹とも仲良し…ということがさらっと描かれるのも、親の仕事を継がなかった幸蔵と次郎吉との対比、ふたつの姉弟の関係との対比…など勝手に奥行きを感じられてすきなところ。)それと、いつかのカーテンコールで、この簪は月に向かって飛ぶ兎を模していて、出演者の飛翔を祈ってつくられたものと礼華さんが教えてくれて、大野先生やスタッフの方のやさしさに胸が熱くなった。

客席の天井と照明をつかった花火の演出も、花火を見上げる次郎吉のきらきらした瞳もあんまりきれいで、全部を目に焼き付けたくて、オペラグラスを外して全部を見るか、次郎吉の笑顔を見つめるか、観る前にあらかじめ強い気持ちで決めて臨んだ。あの瞳に、夏の夜の儚いうつくしさ、すきな人を想うことのきらめきが全部詰まってる。

簪をめぐる次郎吉と喜の字のやりとり、これはもうたまらないですよ…礼華さんがNOW ON STAGEで声のボリュームを上げて大好きと言っていたの、めちゃくちゃわかる。若くして妾奉公を終えて、芸者として立派に自立している喜の字だからこその純粋な少女性とそれまで幸蔵を追いかけるわんこみたいだった次郎吉のやさしい男の色気が同じ温度で香るように感じた。

それから、かつて幸ちゃんを失ったときのようにふたたび幸蔵を失うのが怖い、と弱気な笑顔を見せる次郎吉に応じるように、喜の字が自分も消えてしまいたいときがある、じろさんは消えないで、と弱音を吐く。そうやってお互いの弱さを見せ合いながら、情を深めていく男女の描き方がいとしいなと思う。

みんなわっちの前から消えてしまうんだもの、とつぶやく喜の字の背中を見つめる次郎吉の目が、もっと遠くを見ているようにも見えて、深くて少しこわくなった。これが十二場で丑右衛門さんのいう「他人の痛みを感じ取ってしまう」ときの目なのかな。

 

渡しそびれた簪を愛おしそうに見つめて、懐からふわっと取り出した手拭いに大切そうに包んで、再び懐にしまい、襟をきゅっと抑える次郎吉の一連の仕草がもうとってもよかった。彩海さんの次郎吉のやさしさのA面が全部ここに現れているなと思う。ひとり歌いだす声も、今まで聴いたことがないくらいまろやかであたたかいのに、表現しがたい透明感があって、喜の字が「消えちまいそうだよ」と言いたくなるのがすごくわかる。(そして最期に歌うのも同じ歌で、このときはやさしさのB面を感じている…)

 

お壱と幸蔵のやりとりも、いつも仲間には冷静な顔ばかり見せているはずの幸蔵が感情を露にしてしまうほど、お壱ちゃんも幸蔵にとって特別なひとであるのがわかるのが、ほっとするような苦しいような。

幸蔵の回想場面は初演と同じ演出だけど、生で観劇すると売られたお勝さんの乱れたお化粧や襦袢姿の生々しさ、初めて人を殺めた幸が、凶器に絡んだ自分の指を外すときの震え、ふたりに傘を差しかけるはっちさん淀辰の瞳の底知れなさ…細かなお芝居やつくりこみが伝える情報量の多さがものすごかった…。

 

幕間の客席で、あの簪は結局渡せたのかしら…という会話を何度か聞いてしまったのですが、幕が閉まる前に喜の字が次郎吉の買った簪を手にして微笑んでいますよ。

次郎吉、ちゃんと渡してますよ!!!

と言いたかったけど胸にとどめた。

 

 

つづきます。

月組『ELPIDIO』をみた

初日あたりに観たときは、反戦フェミニズムノブレス・オブリージュ、弱者救済、家族愛などなどの謝先生の込めたいだろうメッセージが記号的に感じなくもなく、

とくに労働者のフランシスコ(彩音星凪さん)たちが"黒衣の弱者"というコロス役を兼任しているにも関わらず、権力者に利用されて最後はアナキストとしてただ捕まってしまい報われないことがかなしくて、もやもやが募った。

けれども何度も観るうちに(6回観た…)、20世紀初頭のスペインという複雑な政治的状況の中でも、個人が他人の主義主張に惑わされず、自分自身の意思で行動を選びとるというシンプルなことを描いた話なのだなと納得できてからはすごく楽しめました。

 

セシリオ(彩海せらさん)が一幕、二幕それぞれで歌う同じメロディの歌詞の主語が、

一幕では"俺たち"の戦いはまだ続くのか、"俺たち"は生きている、

二幕では"俺"のできることは何か、"俺"は今日も生きている、

と個人に変化しているのがすごくいいな、と思ったのがそんなふうに捉えられたきっかけだった。

 

わたしたちはこの後のスペインが内戦に向かうこと知っているから、描かれるハッピーエンドが虚しく見えなくもないけど

家族と同じくらい近い距離にいる人たちと集まって、飲み食べ語らい、詩を読んだり歌を歌ったり、年に一度の祭りを楽しみにしていることが舞台上で一貫していきいきと描かれていて、

そんな自分や周りの大切な人のささやかな暮らしを守るために何をするべきか、誰かの思想に準じるのではなくて、エルピデイィオやセシリオのように自身で決めなくてはいけない、というメッセージを勝手に受け取りました。

 

ちなみに、、、時代背景の予習にと読んだ『情熱でたどるスペイン史』(池上俊一 )の内容や言い回しが、そのまま台詞になっているようでちょっと気になった…(スペイン人は個人や家族に国を従属させている、とか赤の染料は虫が原料とか…)。

謝先生も読んだのかな?勉強されているのは素敵なことだけど、しっかり消化していらないものを削って必要な味付けをした物語をつくってくださいーと思ってしまった。

 

初日の後に見方が少し変わったのは、合間に『蒼穹の昴』を観たせいもあるかもしれない。

観劇前に原作を読み終えて、大劇場公演の評判もよいしかなりわくわくしていたのに、一度観てなんとなくnot for meだなと感じてしまった…

民のため国のためと革命を目指す主人公は、原作では革命に失敗した理由を、民のためという視線に驕りがあったからだと最後に気づく、その発見がとても大事だと思ったのに、宝塚版ではばっさりなくなっていてすごく残念だった。

一方でELPIDIOの主人公はかつて救えなかった奴隷の少年や友人という目の前の個人を行動の理由にする。

こちらのまなざしの方がわたしは共感できる。

世の中が混沌としているとき(いままさに)、わたし自身がどこに思考の座標を置くのか、思いがけず考えさせられるような二作品だったなと思う。

 

エルピデイィオとロレンシオ、アルバレス大佐の役のグラデーションが本当に素晴らしかった主演の鳳月杏さん。

どの衣装の着こなしも素敵だし、真ん中としての佇まいも自然なのに吸引力もあって、主演の作品を観劇できてうれしかった。

 

 

最後にセシリオの話をします。

 

刺されるところからロレンシオの独白をただ聞くまでのお芝居が好きすぎて、

ほとんど映像に残らないだろうと踏んでかなり必死に見つめてしまった。

 

フランシスコの最後の攻撃からロレンシオを庇うだけじゃなくて、もう一働きしてフランシスコを制する(でもその一撃が頭突きなのはちょっとおもしろい)ときの躊躇のなさ、お腹を刺されても相手から逸らさない視線と肩を掴む手の力強さに、ロレンシオを守ろうと固めた意志の強さを感じてぐっときた。

 

その後、ゴメスさんやアロンソさんの会話やロレンシオの告白を聞きながら、話の内容に丁寧に反応しつつもお腹の痛みをけして忘れないお芝居の律儀さとそのやりすぎなさに感動した。

 

下記は忘れたくない自分用のメモ!ソファでの無言のお芝居について。

・本物のアルバレス大佐がクーデターを阻止しようとしていた話

→たぶんクーデターという言葉に反応して深刻な顔をする

・ロレンシオがアルバレス大佐の立場を使って国王に植民地について進言することに成功した話

→わーすごいの顔、ロレンシオへの尊敬の念が溢れるような。

・本物のアルバレス大佐が意識を取り戻した話

→よかったねの顔(いいこ)

アロンソさんの覚悟の話

→思わず笑い、いてて、の仕草(実際に大怪我を負ってるのは自分なのに屈託なく笑ってほんとにいいこ)

・ゴメスさんによるエルピデイィオの詩の朗読

→真剣な顔(亡くなった人たちに自分の勇気ある生き様を示さなければ、という内容だったので、両親のことを考えているのかなと思った)

・「話してくださいあなたのことを、エルピデイィオのことを」

→(ロレンシオの正体について)やっぱりそうなのか!の顔

・エルピデイィオが話し出す

→よく聞こうと身を乗り出して、いてて、となる

・父親が同じ軍人に殺された話

→悲しそうな顔

・権力者の私利私欲を嘆くところ

→怒りが滲むような顔

・名前と国を捨てようとしてキューバを脱出した話

→驚きの表情

・詩の投稿にあたってエルピデイィオの名前をつかった話

→はっとして痛みをこらえながら立ち上がる

・「希望を思い出させてくれたのはあなた方だ」

→嬉しそうな柔らかい笑顔

・本当の名前でこれからは生きていきたい、国の未来を見届けたいという話

→頷くように目が輝く(輝く瞳がほんとうにきれい)

 

観るたびにちょっとずつ表情やタイミングは違ったけれど、周りの台詞を受けて変わる表情や仕草に込められる感情の密度がどんどん増していくのに本当に感動して、見つめていて全然飽きなかった。

長台詞に過不足なく感情をのせる鳳月さんの力量にも感心したのですが、これはおいおい映像でじっくり楽しむことにします!

 

 

2023年も自分の感受性をもっと磨いて、たのしく観劇したいと思います。

 

月組『グレート・ギャツビー 』新人公演をみた

”彼は文字どおり光り輝いていたのだ。歓喜の言葉も身振りもなかったものの、新たに生じた幸福感が彼の身中から光線となって発し、その狭い部屋にまばゆく充満していた。"
グレート・ギャツビー』スコット・フィッツ・ジェラルド / 村上春樹 訳 / 中央公論社より

彩海さんギャツビーが冒頭で「デイジー」を歌い始めたときの、
「君はバラより美しい」という台詞を二度紡ぐときの、
いとしさが瞳から、全身から溢れ出すようなみずみずしいきらめきがほんとうに美しくて、
あぁ、わたしは今日この光線を浴びに来たのだな、と思った。
 
本当に素晴らしい新人公演でした。

デイジーに向けるまなざしのゆたかさが印象深い一方で、
アイス・キャッスルの場面はかなりいきいきして見えて、
裏街道に身を落としたことにそこまでの躊躇いはなくとも
そこで味わった苦渋があったことをたしかに感じられる凄みもあって、
10cm近く身長差のありそうな大楠くんマイヤー、一星くんビロクシーに囲まれてもなお圧倒的に存在感があって驚いた。
 

個人的には入江の場面がとくに心に残りました。

朝日が登る前にを銀橋で力強く歌い終わったあとに、
「ジェイ!」ときれいな声で呼びながら上手から飛び出てくるデイジーを見て
表情が甘く移り変わり、瞳にやわらかい光が灯る過程がすごくすごく鮮やかだった。

デイジーのソロを聴きながら浮かべる、いとおしさを噛み締めるような苦しい微笑みがたまらなかった。
その後のふたりの甘い歌声の重なりもすばらしかった。
キスの後、顔を離した直後の表情がよく見える位置だったので、欲情を感じる名残惜しげなジェイのかおは初めて出会う彩海さんのかおだった…。


最後まで観て、どんなに偽りに塗れても汚れても、けして自分も他人も卑下しないギャツビーのまぶしさに、
きっと誰よりも自分自身がプレッシャーをかけて、まっすぐに一度きりのギャツビーを演じた彩海さんの強さを重ねて見てしまい
腹の底から感動しました。



以下、まとまらない感想の箇条書き。
 
幕が開いてしばらくは緊張で手が震えてまともにオペラグラスが覗けなかったことに自分でびっくり。
 
・瑠皇さん、るおりあくんのニック。
さわやかに明るくておおらかで、分け隔てなく人に優しそうなところがすてきだった。電話でジョーダンに言う「聞いてるよ」が優しくてツボでした。

・羽龍さん、おはねちゃんのデイジー
なによりもまず声がデイジー!小説だと、容姿よりも声について丁寧に描写されている印象が強いのだけど(不死の歌、とか)まさにケンタッキーとテネシーの男たちをすべて虜にするような、魅力的な声。

・七城さんトム。本公演鳳月さんのバランス感覚が素晴らしいのでかなり難しい役なのではと思うけれども、堂々としていて、ちょうどよい浅薄さ、勝者の香りが漂っていてよかった。
 
・白河さんマートル。
パンチの効いた歌声に対して、仕草がどこか幼げというアンバランスさに耳も目も吸い寄せられた。
 
・書ききれないくらい、他の出演者のみなさんも素敵だった。それぞれ個性的でもあるし、真ん中への集中力もまとまりもあって、本公演を観たのと変わらない満足感がありました。
 
アウトローブルースで彩海さんが急にギアを上げたように感じて楽しくなった、というか彩海さん自身がとっても楽しそうにみえた。
帽子を投げて髪がちょっと乱れてたのがかわいい…
フィラデルフィアからのお電話から戻ってきたあときれいになっててかわいい…
(が、せめて舞台写真はフォトショして差し上げたいです…)

・彩海さん、目のハイライトのオンオフが自由自在すぎる…!
と何度も思ったのだけど具体的にどこだったかな…覚えておきたいと思ったのに。
 
本公演月城さんギャツビーのピンクのスーツを初めて観たときから、これは…!とこっそり心配していましたが
めちゃくちゃ似合っていて(贔屓目)、応援の気持ちを込めて、慣れないピンクのワンピースで観劇に臨んだことを恥じました。
 
・ゴルフの場面でキャディさんと話し合う姿がかっこよかったし、バーディをキメて無邪気にニックと笑い合う青年らしい笑顔か清らかで、泣いた。
逃げ出すデイジーを追いかける走り方が格好良く、かつて軍隊で活躍した面影を幻視した。

・「向こう岸から見ているよ」「ここからは一人で行けるね」
このシーン、観劇した席がかなり上手で、デイジーに向かい合う表情がほぼ見えなかったのが残念でしたが、
背中を見つめながら、デイジーの心に染み込ませるようなやさしい、けれどきっぱりとした声色に耳をすませた。
この後歌う「デイジー」もすごくよかったなあ。
 
・銃弾に倒れたギャツビーが、死に顔をデイジーのいる向こう岸ではなくこちら側に向けたこと、
演じ手か演出家が意図したのか否かわからないけれど私はとてもはっとした。
(新公前にみた本公演では、月城さんは一度もこちらを向いてなかったので…)
宝塚版のグレート・ギャツビーは、自分探しの物語だという理解をしているのだけど
偽りまみれのギャツビーが、デイジーへの愛の中にこそ、ほんとうの自分を見つけることができたのだ、もう向こう岸を見守り続けている必要はなくなったのだ、と思った。
(そして向こう岸にもうデイジーはいないのだ…)
 
・新人公演担当の田渕先生。
ルイヴィル~馬鹿な女の子になってやるわ、ジークフェルドフォリーズ、神はみているの場面などがばっさりカットだったのは原作の抑揚に近い印象で個人的に好みだった。
が!ニックがギャツビーの最後の偽りに気づいて
「どんな過去を持っていようと、君は彼奴よりよっぽど価値のある人間だよ」
「有難う。おやすみ。僕は海を見に行く」
とやりとりする場面を失くした理由だけは教えてほしいです…。なぜなの…。
この作品のタイトルの意味…
 
・終演後挨拶。
彩海さんは、ネガティブなことを絶対言わないだろうなと予想していたのですが、
それどころか最初の言葉がまず公演の開幕に尽力いただいた方々への感謝だったことに信頼を深めた。
それ以降の言葉の選び方も、カーテンコールで声を震わせながらも、しっかり言葉を紡ぎ切ったことも、本当に立派でした。
指揮の塩田先生も手を挙げて拍手をしているのが見えて、あたたかくて泣きました。
終演後、退場を待っていた時に幕内から聞こえた拍手の音にもぐっときました。


目撃できたことが嬉しい、と心から思える新人公演でした。
 
 
そして本公演も(何度も)観劇できたのですが、言わずもがな素晴らしかったです…!
志は高貴、行動は喜劇的、結末は悲劇的、とギャツビーについて村上春樹が『ザ・スコット・フィッツ・ジェラルド・ブック』で述べていたのがすごくしっくりくる月城さんのギャツビーの深みからまだ抜け出せていません…
 
千秋楽で月城さんが引用していた、
"明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝にーだからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。"
の一節を何度も噛み締めたくなるような、日々進化する舞台に、振り返っても心が震ええます。
 
これからの月組にも楽しみしかない!

12/1丸の内キャリア塾 メモ書き写し

12月1日、早霧さんの丸の内キャリア塾スペシャルセミナーに参加しました。

安定の竹下さんの司会進行のもと、柔らかにほがらかに冷静に話す早霧さんと夢乃さんを見つめながら、このひとから放たれるすべてから、受け取ることができること、感じること、考えることぜんぶがわたしに影響している/いくことの逃れられなさをあらためて噛み締めた。

タカラジェンヌだったころのふたりを総括するようなお話を、まるで大学の講義のように堂々とメモをとっていられることが新鮮でありがたくてずっと興奮しながら、気づいたらA5のノート6ページ分になっていた。

 

2017年が終わってしまう前に、その汚いメモをとにかくかたちにしておきたくて、久しぶりに書きます。

※雰囲気です。あくまでもわたしのフィルターを通して書き留めた言葉です。

 

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 宙組から雪組への組替について

宙組雪組のハーフです。ちょうどいい案配です。

・組替が一般の会社でいう異動なら、退団は第二の異動というかんじだと辞めたときに思った。

・自分は明るい人見知り。壁に隠れて観察して、この人はいい人そうだ、危害を及ぼす人ではなさそうだ、と判断してちょっとずつ近づいていくタイプなので、雪組のみんなと本当に馴染むのに1年くらいかかった。

宙組がNYなら(のびのびしている)、雪組は京都(真面目できっちりしている)という印象だった。

・組替をきっかけに自分を変えたいというよりは、雪組に早く染まりたい、雪組の歴史のなかに馴染みたいという気持ちが強かった。

・当時はこういう男役になりたいなどの具体的に目標があったというよりは、水さんや彩吹さんなどの上級生についていくことに日々必死だった。

 

トップスター就任後のこと

・トップを目指すのは怖かった。なるための苦労も、トップになってからの苦労も今までみていたからこそ、簡単に目指したいという気持ちにはなれなかった。音月さん、壮さんのもとで二番手をつとめて、早霧せいなを応援している人の存在を強く意識するようになり、自分だけの早霧せいなじゃないという自覚が生まれた。応援の気持ちを裏切らないためにトップをやらせてもらいたいという覚悟を決めた。

・トップになって、今まで見えていなかった仕事の量に驚いた。グッズのデザインや取材だったり。台詞やフリをいつ覚えたらいいんだろうと思うくらいだった。

・組子の面倒をみていた、指導をしていた意識はなかった。勝手にやってくれていた。それができるのも、タカラヅカのシステムゆえ。音楽学校でみんなが同じ教育を受けているから、ひとつの思いで取り組める。変な方向を向いている人がいない。ちょっと方向が違っても、「あそこだよ」って少し示すだけでそこに向かって走ってくれる。

・たとえばそっぽむいている人がいても放っておく。それよりもすでに出発して頑張って走っている人を押してあげたりさらに引っ張ってあげることで、まだこちらに来ていない人が走りたくなる状況になると思っていた。

・ひとりひとりに感想を口にすることはしなかった。自分は演出家じゃなくて仲間だと思っていたから、あらたまって話をすることよりも、日常のなかで「どうしたの」「かわいいね」などちょっと声をかけるなど、コミュニケーションをとるなかで悩みを聞いたりする程度。人の生き方に首をつっこむタイプではないし…みんながそれぞれやるべきことをわかっていることを信じていたから。

・運動会は組がひとつになれるきっかけになった。同じ時や経験を共有することはすごく大切だとあらためて思った。

・ジェネレーションギャップを楽しんでいた。「『5時から男のグロンサン』、わからないだろう」という会話を楽しんでいた。

 

トップコンビのこと

・ふたりの目標として、ふたりで同じ方向を向いて走っていこう、ふたりだけじゃなくて、その景色をお客さまにも見てもらうこと、一緒に舞台に立つ仲間の思いを大切にすることを最初に決めていた。

・長い濃い3年間だった。朝から晩までとにかくずっと一緒なので、家族以上に一緒にいる時間が長いので、遠慮している暇がなくなる。10歳くらい離れているのに喧嘩もしたし、笑いあったり、励ましたったり。どんなときでもコミュニケーションをとることをやめなかった。怒っていても、怒っています、ということを伝え合えていた。あきらめずにコミュニケーションをとり続けて、いいところも悪いところも見せあいながら最後までやり遂げることができた。

・男役をやりたい自分と、娘役をやりたい咲妃をお互いに尊重しあえたことがよかったのだと思う。

 

出演作品のこと

・(トップ期間中の作品がルパンやるろうに剣心など話題作が多かったことについて)いわゆるタカラヅカらしい作品をやりたい自分も大きかったが、ルパンを演ったことで、タカラヅカでアニメを舞台化するなどの挑戦をしてもお客さまに受け止めてもらえる、むしろ応援してもらえることに気づいたし、新しくタカラヅカに初めて出会うきっかけになるという看板としての役割を担えたことが喜びになった。

・動員100%超の記録が続くなかで、プレッシャーを感じていたというよりは、とにかく面白い作品にしたい、その先にお客さまが沢山来て下さると思っていたので、自分と、なにより組子が本当に面白いと思って取り組まないとお客さまにも伝わらないと、舞台に立つなかで常に自問自答していた。

・自分の必死さを組子も見ていたし、組子の頑張る姿に立ち上がれたことも沢山あった。(ひとつにまとまっていたんですね、という竹下さんに対して)客観的にそう言われると嬉しいけれど、(他の組の人も自分たちもそうだと思っているだろうし)まとまっていたと信じたい、というきもち。

・ひとつのものごとにどれだけ真心を込めて、情熱を傾けて取り組めるか、で決まるんだということを、退団をしてから、舞台に立つ以外の仕事を目にするようになってあらためて感じている。

 

(人の)やる気を引き出すには

・やる気スイッチはあくまでも自分で押さないと意味がないと思っている。押してはあげないけれど、誘導することはできるかもしれないけど、押し方は人それぞれだから、どういう距離感でつき合うべきかはよく観察していた。

 

限界を感じること、乗り越え方は

・限界はしょっちゅう感じていた。一から作品をつくることを始める恐怖、不安を毎回感じて、稽古に行きたくない病を発症していた。他の人になんとかしてもらうことはできないから、なんでそういう状況なのかを自分で分析しながらずっと地団駄を踏んでいた。悩んでいることを隠そうとはしていなかったので、組子に相談して、「そんなふうに見えてないですよ」「こうしてみたら」などの言葉で糸口が見つかることも多かった。なにより、組子との他愛もない雑談や笑いが薬になって、少しずつ変わっていく感覚を確かに感じていた。

 

座右の銘

・「こだわらないことがこだわり」

自分で幅を決めたくなかった、自分のこだわりや思い込み無しで、他の方が考える役や作品に挑戦したい気持ちがあった。

 

ここから夢乃さんも登場です。

夢乃さんは自分の退団時に退団に向けてやらなければならないことリストをレポートにまとめて「いつか時が来たら見て!」と早霧さんに渡していた。

・出会いは寮の説明会で、お互い親が不在だったことがきっかけで声をかけあった。

・早霧さんは音楽学校の合格発表の翌日が、すでに合格していた大学の入学式だったので、両親に合格を報告した電話であらためて意思を問われて「行くに決まっとるったい!」と伝えた。

音楽学校時代、アキコカンダさんの授業にて、早霧さんのジャンプ力がすごすぎでみんなとずれていたのが印象に残っている夢乃さんと、夢乃さんの手足が長過ぎて、隣で踊っていると叩かれるのではとびびっていた(雪組のときも。小雨降る路のときでさえも)早霧さん。

夢乃さんは好きなことへののめり込みがすごい。好きだったバレエのクラスは、入学時のDから最終的にAにあがった。AとDの格差はすごい。Aがパドドゥをやっているなか、Dは柔軟と筋トレをしている。

・早霧さんの掃除分担は一番教室で、代々その期の一番美人がやる。夢乃さんは講堂のロビーで、中卒・寮生・身長が170cm以上の男役がやる(大和悠河さんとか)。

・初舞台のとき、成績順で並ぶ楽屋で、ちょうど夢乃さんと早霧さんが隣で、ふたりでひとつの鏡をつかっていた(この話を始めるときの、ち「あーっそうだ!」、と「そうだよ!」のコンタクトが可愛すぎた)。

・組配属後はほとんど会うことがなかったが、それぞれの出演作は観ていた。「Never Say Goodbye」や「竜馬伝!」の新人公演をみて「ちぎちゃんが主役してる!」と感動したり、「長崎しぐれ坂」のさそり役がめちゃくちゃかっこいい!と感激したり、お互い影響しあっていた。

 

夢乃さんが雪組にきて

・と:組替の話を聞いても組替先が「雪組」であることが信じられず、月組かも!と聞き返したらSnowですと言われた。星組で培った自分の持ち物が雪組と違いすぎて驚いた。

夢乃さんは雪組に馴染むのがめちゃくちゃ早かった。(ち「すぐ馴染んでずるい!」)

・早霧さんは24時間役のことを考えているタイプで、すぐに悩んでいたが、「ちょっと息抜きしたら」とか「大丈夫だよ!」と明るく夢乃さんに励まされることで「そうかも!」とマインドコントロールされていた。

・(竹下さん:早霧さんがトップになられて、夢乃さんはそれを支えるように…)

ち:支えるっていう言い方がいやで、支えようと思ってそこにいてほしくない。それぞれがやりたいこと、やるべきことをやるなかで勝手に支えているかたちになるといいなって思っていた。

と:支えようとこれっぽっちも思ってなかった。

ち:私も「支えてよ」って思うタイプじゃなかった。

と:星組柚希礼音さんがトップになったときに、支えようと思わんでいい、自分たちが輝いてくれれば、それが一番支えるということになるから、自分のことに精一杯になってほしい、と言われた経験があって、雪組の組子にもそういう風に伝えていた。

ち:自分はそういう風に言うことも恥ずかしかったから柚希さんみたいにはなれなかったわ。

と:私が言ってたから大丈夫!

ルパン三世で、幕が降りる直前のジャンプは元々の振付けにはなかったが、夢乃さんが「跳んだ方がいいよ!」と推してくれたおかげで採用された。

 

退団してから感じること

・ち:タカラヅカにいて、男役だと名乗っている時点で、他のことを捨てていたことに退団後に気づいた。在団中は気づいていなかったけれど、男役という鎧を脱いだときに、いろんなことを捨てて、そこだけに集中していたんだと思った。大好きで楽しんでやっていたけど、脱いだらすごく楽になった。鎧はけっこう重かった。でも、他を捨てられるほど集中させてもらえたこと、その姿を応援してくれる人がいたこと、そうじゃないとタカラヅカじゃないことに気づけて感謝している。(と「すっきりしてるもん、いま!」)

・と:普通にこんなに楽して生きていけることに感動している。

 ち:ちっちゃいことに感動する、「太陽がまぶしい!暑い!」とか。

・(本名じゃなくて芸名の○○になって、さらに役を演じるという二重三重の世界について)10代のころに音楽学校に入って、知らぬ間にその世界に入って暮らしていくなかで、だんだん芸名の自分が自分になっていく。

・(竹下さん:辞めて、すべてを投げ捨てて…)ち:「らく!」一生懸命やりきったからこそ、今その違いを楽しめている。

 

体力、メンタルのケア

・すごく気を使っていた。神経が研ぎすまされているから風邪もすぐ察知して対処できていた。

夢乃さんはリフレッシュが上手い。落ち込んだら、家に帰ってベランダに出て、しゃがんで(見えちゃうから、夢乃さんがあんなところに、と思われちゃう)月を見ながらビールを飲んでいた。そして10時には寝る。

 

美のケア

・ち:うーーーん。。。辞めてから追求しなければならないことが増えた。男役は無防備でよかった。寝癖を帽子で隠したり。女性として以前に人としての身だしなみに気を使っている(と「もうできてるよ!」)。←このやりとりがまさにすぐに悩むさぎりさんと笑って励ますゆめのさんで、胸がぎゅっとなった。

・食事のタイミングがそれぞれ違う。夢乃さんは公演中は2食、胃もたれしちゃうから劇団では食べない。早霧さんはちょっとずついっぱい食べる。トータル量は一緒のはず。

・ち:こんなに痩せてるけど、なぜか元気でした。両親に感謝。

 

宝塚の舞台を見て

・ち:在団中は下級生でさえいいところを盗もうとか、もっとこうすればとか思いながら観ていたけど、いまは入る前の自分に近く純粋に楽しめている。

・と:ファンのみなさんの気持ちがわかった。宝塚を観る日のためにがんばって、この日が来た!とるんるんして、すてき、恋しちゃった、という気持ちになって、劇場を後にする寂しさを味わっている(ち:その境地にはまだ至っていない)。こんなところ現実にない!

 

「Secret Splendour」に出演して

・どんな経験もやってみないとわからないとあらためて実感した。

・今までのように、よく知っている仲間とではなくても、ひとつの舞台を誰かと作り上げる喜びが確かに存在することを知れた。

・ノースリーブやドレスなどの服装はもちろん、俺じゃなくて私だったりする歌詞の違いを身体で体感できたこと、舞台に立ってお客さまに見せようとしないと挑戦できなかったこと(ち:私生活でドレスなんて絶対着ない と:着ていいんだよー)をありがたく感じた。

・スカートも髪型も、なんでこんなにこだわっているんだろうってファンの人に対して思う。期待に応えようかな、いや応えるまい、と考えながら、とにかく自分のペースでやっていくつもり。

・これから男装することはあるかもしれないけれど、それはけして男役ではない。鎧はもう着れない。

・男の人と舞台に出るのは不思議な感覚。近いし、もたれなくちゃいし、支えられなくちゃけないから。リフトは女性の振付助手の方に対して一度自分がする側をやってみて振付けを理解してから、という稽古をしていた。

・在団中に演じたエラ先生のときも混乱していた。期間限定の男役をやるためにタカラヅカに入ったのに、とイヤイヤやっていたけど(と:かわいそうだった)、退団した今は割り切ってやれているし、エラ先生の経験は無駄じゃなかったなと思う。神様ありがとう。

・エラ先生はほぼソロだったので、振付が後回しにされて最後の一日で4曲くらいの振付けがあってパニックだった。

 

これからの仕事

・(竹下さん:こういうのやってみたいということは?)ち:とくにないし、考えないようにしているし、選びたくないという思いもある。やりたいと思うことが必ずしも叶う訳じゃないことをこれまでの人生で知っているから、ご縁があったものに挑戦したいと思っている。これまでの人生で得られたものをとても幸せに感じているからこそ、なにか社会に還元できることが自分のなかにあるのならば、それに挑戦したい。

 

タカラヅカという存在は

・と:辞めてからタカラヅカの素晴しさをより感じる。入ってよかったなと思う。一生のともだち、ともだちよりも遥か上のつながり、絆を持てた。

・ち:辞めることを「卒業」ということがとてもしっくりしている。タカラヅカは、人生論、舞台のこと、人との信頼関係など、ぜんぶを学べる学び舎、学校だった。卒業してこれからどうなるのかなという不安はあるけれど、その学校がいまもしっかりあるので、誇りをもって生きていきたいと思える。

 

生まれ変わったら

・と:男になってばりばり働きたい

・ち:自分のなかの宝塚での記憶が生々し過ぎるので、その記憶がなくなってたらまた入るかも。笑。

 

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終わり。

咲妃さんとの諦めないコミュニケーションの話と、男役という鎧がとても重かった、と実感をこめて話していたこと、悩みがちな早霧さんと笑って励ます夢乃さんのきっと変わらない関係性にとくに胸を打たれた。

男役という仕事に出会えたことに心から感謝して、その仕事そのものにも、そのなかで築く人との関係にも、ぜんぶに諦めずに臨んでいた早霧さんと、隣にいた夢乃さん咲妃さんの強さ、潔さに、とても憧れる。

少しでも近づけたら、と思う2017年末です。