自分を見ること ー『Golden Dead Schiele』をみて

まだバウホール公演の余韻の中に漂い続けている。
次の大劇場公演はトップコンビの退団公演でもあり、初舞台公演でもあり…きっとまた新しい気持ちが心と頭の少ないキャパシティーを埋めてしまうだろうから、この余韻を少しでも言葉にしておきたいと、初日直前に慌ててPCの前に座っています。
 
とにかく言いたいのは、
・死の幻影の存在
・いまの彩海さんがエゴン・シーレを演じたこと
のふたつが、わたしにとっておもしろかった、ということです。
 
わたしは予習好きなので、エゴン・シーレの作品集や手紙を集めた書籍などを読みながら、演目が発表されてから初日の幕が開くまでの時間を楽しんでいました。
 
とくに印象に残ったのは、二重自画像の作品たち。
絵の中には画家自身が2人(3人の作品もある)いて、2人がこちらを睨みつけていたり、1人が亡霊のようにもう1人の人物を覆っていたり、一目では人物だとわからない黒い影が背後にいたりと、2人の関係性に様々な想像が膨らみ、単なる自画像よりも複雑な意味を感じる絵画表現を興味深く感じた。
 
彩音さん演じる"死の幻影"が、シーレの前に鏡の中からすうっと現れたとき、まさに二重自画像だ!と興奮した。
彩音さんの不気味なほどの静かさ(激しく踊っても足音や衣擦れの音が全然しない!)や、瞬きをほとんどしない異様さ、彩海さんの演じるシーレを撫でる指先の妖しさ、シーレを見つめるまなざしの力強さ…実際の身体を使って表現しているのを目の当たりにして、実在のシーレが遺した二重自画像という絵画表現が、舞台表現に変換される意義をとても感じた。
舞台作品ではこうした概念(ロミジュリの"死"と"愛"とか)を表す役者が登場することは珍しくないけれど、今まで見たどの作品よりもその存在の必然性に納得できた。
 
二重自画像を含む自画像の作品をシーレが最も多く描いたのは、敬愛していたクリムトの影響からの脱却を図っていたという1910年から1911年にかけてらしい。
 
『Golden Dead Schiele』の台詞でも、モデルと共に鏡越しの自身を描くシーレが「あなた、ナルシスト?」と問われる場面がある。
でも実際の絵画作品を見ると、ナルシズムという言葉で想起するような甘い自己陶酔や自己憐憫は見えなくて、その皮膚を剥がしてまで流れる血を見ようとするかのような痛々しさや歪みに心がざわつく感覚を抱く。

『鏡の中の自画像(古川真宏 / 平凡社)』という本を読むと、「自画像というものに宿命的に付きまとう、観察する主体としての自己と観察される対象としての自己への分裂、あるいは創造者としての自己と被造物としての自己の不可分性、それだけでなく、他者としての自己に同一化する鏡像段階のシナリオをそこから読み取ることもできる。」とあり、そのように内なる他者を内観する自己観察者としてのシーレの冷静さ、暴力性をおそろしいほどに感じる。
 
そんな狂気じみてもみえる画家を演じた彩海さんもまた、技術の研鑽と冷静な自己観察の先に、自分だけの表現にきっとたどり着ける人なのだと感じる瞬間がいくつもあって、とても圧倒された。
 
初日から、幕開きの歌でバウホールの空間に収まりきらないくらいの音量を爆発させていたこと。
少年時代から『死と乙女』を描き画家としての成功を果たすまでの時間の経過、経験の重なりがその声色や表情の変化に繊細に感じられたこと。
まばたきひとつ、呼吸ひとつに、意味を感じてしまうほどの集中力が、こちらの呼吸も忘れさせるほどだったこと。
千秋楽の一幕ラストできれいな大粒の涙を溢れさせながら、歌声は絶対にぶれなかったこと。
 
彩海さんはかつて雑誌のインタビューで
「私は自分に自信がないからか、演じる時も自分自身は脇に置き、その役の力に頼って生きてしまう。でも、それだと限界があり、世界が狭まってしまう。これからどんな役にも染まれる男役でありたいからこそ、ちゃんと自分と向き合い受け入れなければなと。」
と話していた。(+act 2020年5月号)

 

演劇論については全くわからないけれど、自分をただ感情の装置として扱い、その操作を役に委ねていたということなのかな。
当時(壬生義士伝やONCE UPON A TIME IN AMERICAの頃)の彩海さんのお芝居には、その役の色にきれいに染まる不思議な透明感があって、わたしはとっても好きだった。


たしかにその頃に比べると、演じる役はもちろん、作品や劇場の空気を掴んでコントロールする彩海さん自身の存在感が増して、客席が物語に身を委ねられる安心感をつくっていたように、振り返って思う(観劇中はあまりにも没頭していました)。 
これは、彩海さんが"ちゃんと自分と向き合い受け入れ"た先に辿り着いたことなのかもしれないし、シーレの自己観察に近いプロセスなのでは、と勝手に考えた。

 

「眺めることは画家でもできます。見ることはしかしながら、それ以上です。」

という言葉を遺したエゴン・シーレが、画家としての自己の確立のために選んだ道は、
ひたすらに自分を見ること。自分を描くこと。描き続けること。
 
新人公演を卒業した彩海さんが、これから役者としての唯一無二の道をさらに拓いていこうとしているいま、シーレを演じたことが確かな礎になりますように。

そして叶うなら、今の彩海さんがお芝居について考えていることを知る機会があるといいな。
とっても興味津々です。