月組『月の燈影』をみた②

二幕いきます。

 

第二幕

第十一場 川向う・深川富岡八幡宮の境内

初演にはなかった、5年前の祭禮で淀辰の下にいた頃の幸蔵が木遣り歌を歌うシーンが追加されているのだけど、主演の見せ場としてだけではなくて、お勝の弟としての幸蔵の人物像、川向うに流れてきた若者を嵌める淀辰の手口がわかりやすくなり、そして薄ら衆道の入口の香りも漂って、物語の奥行きが増したように感じられた。弟であることが強調される描き方も、どこかあどけなさが漂う礼華さんの幸蔵の危うさが際立ってしっくりくる。
おゑんさんと六八だけが時空の間に立って、照明の明るさと色温度が高くなることで、今(冒頭の9年前、二幕頭の5年後)の祭礼に切り替わるシンプルな演出も面白い。
5年前の幸蔵と同じ木遣り歌を歌う次郎吉の声がふわぁーとバウホールの空間に広がるのが本当に気持ちよくて。伏し目がちに喜の字と視線を交わしながら踊るのも、簪を渡した後のふたりとしての情感があってとてもすきだった。
曲の合間に喜の字が文字春に連れ去られるところで、他の御祭禮の男たちに混じって上がる掛け声が楽しそうなのと、伸ばした指先の滑らかな動きも綺麗でずっと見ていたくなった。あと、妃純のねえさんに「かわいい兄あだね」って言われるところになぜか私が照れた。前回のDeep Sea で少しだけ組んでいたことを思い出しつつ…
見せ方の順番は逆だけど、おゑんさんは次郎吉の木遣り唄を聞いて、5年前の八幡祭を思い出しているのか…と思い至ったとき、さっちゃんとじろちゃんとしてふたりで重ねた月日がたしかにあったことを感じて苦しくなった。

 

 

 

第十二場 川向う・両国回向院の賭場

ひとり三味線を爪弾く幸蔵、その背中をいとしそうに見つめるお壱ちゃん、夕暮れ色の照明と、ひぐらしの鳴く声…何度観てもうつくしい場面だった。
この場面で明らかになる幸蔵=幸と次郎吉の関係性がもう…
優しく冷静で頼りになる兄貴分の幸、真っ直ぐで感情表現の豊かな弟分の次郎吉、というそれぞれのキャラクターはここまでの物語で必要十分に描かれているけど、他人の痛みに敏感で、その辛さを自分から背負い込んでしまうような次郎吉に、実は幸の方こそが依存していること、そしてそれを幸自身が自覚していることが、台詞だけじゃなくて礼華さんの表情の歪みや熱の篭った声色や苦しげな眼差しや…全身から伝わってきてたまらなかった。
加えてまりんさん丑右衛門さんのあったかさといったら…!兄弟のように戯れ合う二人を、きっと本人たちさえ当時は自覚できていなかったかもしれない依存関係を含めて、ずっと見守り続けた人情の厚さや懐の深さ、火消しの頭としての経験や人間の豊かさ…二人に向けられる重みのあるあたたかさに、観劇を重ねるほどに泣けてしまった。
それから、丑右衛門さんと大八木さんの言葉を聞いて川向うの人間への差別に震えながら憤ったり、思わず「あちしたちよりしろきちの方が大切かい?」と聞いてしまったりするお壱ちゃんがもういじらしくて…!悔しさや、それでも変わらないすきの気持ちの滲ませ方がとてもよくて…舞音ちゃんの健気なお芝居が心からすき。
淀辰に連れ去られた喜の字を助けようと幸蔵が立ち上がるのは、次郎吉を川向うの仕掛けに巻き込みたくないことに加えて、新助の姉である喜の字に死なせてしまったお勝さんを重ねているからというのも上手なお話の運びだなーと思う。
 

 

第十三場 川向う・本所の裏路地

芳三と三吉とおとせちゃんが毎回アドリブで会話しながら仲良く出てくるのがかわいかった。でもここが楽しそうなほど、この日常を奪おうとする淀辰の非道さが際立つ…。
伊七を演じる真弘さんのお芝居も、かつての仲間を脅す口ぶりに、これ以上の失敗で居場所を失えないという追い詰められた焦りが滲んでいてよかった。


 

第十四場A 川向う・深川佐賀町の塒

天愛さんの文字春も、喜の字への意地悪い迫り方のなかに伊七と同じく淀辰に取り入りたい必死さが透けていて上手だなーと思うし、悪役として描かれる人にも川向うでしか生きていけないどうしようもなさがそれぞれにあるのが見えると、この物語の湿度が増してより作品として密度があがるなーと感じる
そんな人たちの中でひとり腹の底のみえない六八(蘭尚樹さん)が怖かった…ふわふわへらへらした動きの中でさっと扇子を首の裏にしまう不思議な玄人感とか。


 

第十四場B 川向う・両国回向院の賭場

「思い出を追っても時は戻らない」とか、「重ねた月日に汚れたこの身」とか(あいまい)、客席から登場しながら幸蔵の歌う詩が切ないのと、幸蔵の仮面が剥がれかけた揺らぎのある表情の覗く礼華さんがすごく魅力的だった。
同じメロディを次郎吉は、紫陽花の色が移り変わっても、あの日と同じ夏の香りが漂う、と歌い継いでいて、川向うで変わってしまった自分を嘆く幸蔵の変わらない内側を真っ直ぐ見つめているのが五感で伝わるような深くてやさしい歌声だった。初演では次郎吉がひとりで歌う曲だったけど、素敵な改変だなと思った。
しかし客席降りしてくれてる礼華さんには申し訳ないと思いつつ、舞台の真ん中で照明が着く直前にスタンバイする次郎吉をみることをやめられなかったことをここに告白します(羽織を肩にかける仕草と厳しい表情が薄闇の中に浮かぶのがかっこよくて…)。
恋敵の次郎吉に突き放すような態度をとるお壱ちゃんだけど、幸蔵の助けになりたいと思っている強さや必死さも見えるのがたまらなかった。舞音ちゃんお壱の健気なお芝居がとってもすき(2回目)。
そんなお壱ちゃんにぬり壁呼ばわりされるてらくん粂八の説得力もよい(大きさはもちろん強そうなのにとぼけた存在感があるのがすき)。


 

第十五場 川向う・深川永代寺門前仲町の料理茶屋

気だるげに三味線を弾くおゑんさんの艶っぽいこと!この先の未来を見通したうえで何もしない冷えた存在感があった。NOW ON STAGEで天紫さんがおゑんさんについて「川向うの女の縦社会を感じる」とお話していたのがすごくわかる。喜の字を無事に手に入れて余裕をこいているような淀辰や文字春の様子を見ていると、女だけのくくりを超えて、淀辰よりもてっぺんにいる人なのかもしれないと感じる。
喜の字は新助と同じく姉弟二人をはめたのは幸蔵だと思っていたはずなので、名前を聞いてまず不審そうな顔をするのが、幸蔵とおゑんさんの会話を聞きながら、次郎吉がきらきらと語っていたさっちゃんについての情報と一致していくので信頼に至る、繊細な天紫さんのお芝居もよかった。(姉の存在、木戸働の倅であること、そして中村座で仕込まれた三味線…「高くつくぜ!」の台詞のかっこよさになんて上手い脚本なんだーと唸った。)


 

第十六場 川向う・元番所

第二場がリフレインするようなコロスの演出にはらはらする気持ちが高まる。
幸蔵が喜の字の手首をつかんでいるのに対して、粂八がお壱ちゃんとしっかり手を握っていることにこっそり(いや客席中みんなしてたと思うけど)きゅんとしていました。
 


第十七場 川向う・向両国の広小路

彩路さん三吉のお芝居がよかった…!
川向こうでしか生きられない、あの場にいる次郎吉以外の全員分のやるせなさを爆発させていて、幸蔵の抱えている苦しさの重みをその分だけ感じた。あと、三吉たち通り者の生きづらさについては、初演の映像では私の想像が及ばなかった部分だったので、ひとりひとりの熱量に生で触れて初めてぐっときたところ。観劇の醍醐味を味合わせてもらいました。

「俺はここより他に生きる場所を失った、でもおめえは違う、おめえはまだ手前の力で生きていく場所を見つけることができる」と幸蔵に言われるところで、次郎吉が瞬きせず真っ直ぐ幸蔵を見つめているのがすごく印象的だった(何回か観劇して一度も瞬きしていなかったから、意図的なのだと思う)。あんまり透明できれいな瞳で見つめるものだから、目を逸らして「俺のことは忘れるんだ」と叫ぶ幸ちゃんが余計に痛々しかった。この幸ちゃんの台詞を受けた次郎吉の返答が、幸蔵に襲いかかる伊七を切りつけ自らも手を汚し、腹から血を流しながら言う「約束したじゃねえか、手前の力で生きていける場所を一緒に探そうって」の言葉と行動とそして笑顔で、近くにいてほしい、という幸ちゃんの本当の願いや寂しさ、孤独に自分の全てを賭けて寄り添おうとする彩海さんの次郎吉の底知れないやさしさに、畏怖に近い気持ちが湧いた。
あと、幸ちゃんにようやく「じろちゃん」と呼んでもらえてから呟く、「仕方ねえよな」の言い方がふいに重く心に響いた日があって。文脈的には次郎吉自身に対する台詞なんだけど、(もはや妄想だけども)何も言わずに姿を消したこと、約束を反故にしたこと、再会してしまったこと、川向こうの仕掛けに巻き込んだこと、何もかもを後悔しているかもしれない幸に対して、自分を許していいんだよ、と伝えているようにも聞こえた。

そのやさしさは喜の字にも新助にも向けられる。致命傷を負っているのに、喜の字に呼びかけられて、おう、と軽い返事をしながらさっと笑顔をつくったり、新助にも責めるどころかその心を癒そうとでもするように笑いながら「いてえじゃねえか」と言えてしまう。深すぎるやさしさを軽やかな笑顔で包んで相手にそっと届けるような次郎吉の生き方は、見守っているのが苦しすぎる(丑右衛門さんへの共感の思いがむくむくと湧く…)。

新助に次郎吉が刺されてしまう瞬間、客席から驚いたような吐息が少なからず漏れ聞こえてきたけど、個人的なハイライトは刺されたことよりも腹に刺さった刃物を自ら抜くところと、伊七を切りつけた後、周りが慌ただしくなるなかひとり倒れ込んで肩で息をしている表情のない横顔だった。刺さった刃物の柄を掴む指への力の込め方や漏れる吐息、抜いた瞬間に全身の力が一瞬抜けたような体制の崩れ方、倒れた後に自分から流れる血を少し確認するような視線の動かし方、肩の不規則な上下の動き…見つめていてこちらが痛みや苦しさを感じてしまうほどお芝居が細かくてぞっとした…。次郎吉が自分自身の痛み(物理的な痛みも、死に触れてしまった心の痛みもきっと)に向き合っているのってこの一瞬だけのような気がする。
 
苦しげというよりは遠のく意識を繋ぎ止めながら、最期まで幸に笑顔を向け続けて、ろうそくの炎が消えるみたいにすうっと訪れる死の静かさが、蘭寿さんの次郎吉で感じたドラマチックさとは違って、無性に哀しかった。
下手前方席から観たとき、亡くなった次郎吉を抱く喜の字が、さらに背景の大きな月に包まれているように見える視界があまりに美しくて、終演後に隣に座っていた友人とピエタみたいだったね…と語り合った。忘れられない画だった。

初演の映像をみて、沢樹くるみさん演じる喜の字が、淀辰が現れた瞬間に次郎吉の身体を抱く腕にさらにぎゅっと力をこめていて、それが次郎吉を守るようにも縋っているようにも見えてぐっときたのですが、天紫さんは淀辰の登場にもその後の幸蔵の殺陣にすらほとんど動じていないというか意識が向いていない様子で、冷えていく次郎吉の身体の最後のぬくもりを抱きながら、ひとり喪失と向き合っているように見えてとても切なかった。
淀辰を殺めた幸蔵もまた、次郎吉の亡き骸を最後にひたと見つめるのが苦しい。
次郎吉を通して辛うじてつながっていた江戸=表の世界とのつながりが完全に切れたことを確認するような、共に生きるという約束を守って逝った次郎吉から何かを受け取るような、川向うという裏の世界を産んだ世の中の仕組みそのものへ復習を誓うような一瞬のまなざしに、ぞくりとした。

千秋楽は、彩海さんが大きな瞳から涙をたくさん溢れさせながらの熱演で、息を引き取った後に濡れたままの次郎吉の頬がスポットライトを眩く反射して、内側から発光しているようにも見えて…この世の人ではないみたいにきれいで(死んでるけど)、幸にとっても喜の字にとっても、光そのものみたいなひとだった、ということが千秋楽にしてとても胸に迫った。


 

第十八場 追想

初日の開演前にプログラムを開いて、「幸蔵(少年)、次郎吉(少年)」という文字を見ただけでもう苦しくなってしまったシーン。少年時代の次郎吉を演じる蘭叶みりさんが、幸に向けても、ひとりで三味線を弾きながらもずーっとにこにこしていて、次郎吉の幼い頃の役づくりとしての意志を感じてよかった。
(少年)という役名ではあるけれど、丑右衛門さんや喜の字と会話を交わして、でもやはり過去としてお勝さんに「幸ちゃん」と呼びかけられ、くるりと半回転すると幸蔵=フィナーレの男S、次郎吉=フィナーレの男Aが現れフィナーレになだれ込む、時空も役割も軽やかに越えていく舞台ならでは、宝塚ならではの演出がたまらなくすき!!!
 
幸と次郎吉のデュエットダンス(本人たち談)は、男役と娘役のデュエットダンスさながら二人で息を合わせて踊ろうとしているのが伝わってきゅんとした(初日の方が緊張感があって踊り自体はぴったり揃っていて、公演を重ねるほど振りを揃えることよりもお互いを感じることに重きをおいているのかな、となんとなく感じた)。本編とは反対に、礼華さんの方が頬を緩めた朗らかな笑顔をこぼしていて、彩海さんの方がそれを見守るような慈悲深い感じの微笑みを浮かべていたのが印象的だった。
礼華さんと娘役さんたちの踊りは、ひとりずつ役の延長のように礼華さんと振りや視線を交わすのが、彩吹さんらしいやさしい愛のある振付だなと思った。それぞれに相対する礼華さんの、蕾がほどけるような笑顔が本当に無理がなく自然で素敵。個人的にはここで真ん中にいる幸蔵に弟属性をとても感じた。
次郎吉と喜の字のデュエットダンスは、第十場の簪の場面や第十七場のピエタの場面と同じ大きな月を背にしていて、その画だけで泣けてしまう…。NOW ON STAGEで少しずつ体温を上げられるようにがんばりたいと話していたけれど、踊りを通して交わし合うふたりの思慕の念が観劇のたびに濃くなるようにみえて、彩海さんの漢気や色気がぐんぐん増していくのでときめきを通り越して動揺してしまった。成長著しいにも程がある。差し出す手はやさしいのに身体に触れるときには思いがけないくらい力が籠ってみえるな、とか、伏し目で相手を捉える視線の動きとか、ちゃんと憶えておきたいな。
そして火消しダンス!初演の映像がものすごく印象的だったので、再演で観ることができて感激でした。客席から手拍子が湧くと明らかに笑顔が濃くなる礼華さんがかわいすぎた。実は………礼華さんの投げる手ぬぐいをゲットしてしまったのですが、飛んできたそれを見上げた時の、手ぬぐい越しのミラーボールが輝いていた景色がなぜか忘れられない(もっと憶えておきたい景色があるのに!)。

パレードは初演と全く同じ音楽と振付で、先に出てきた次郎吉が喜の字を迎えに行って手を取る演出がとっても素敵だったので、彩海さんと天紫さんで観られて嬉しかった。最後に登場する礼華さんを迎える前に、位置についた天紫さんの準備が整うまで律儀に見守る彩海さんがすき。出演者同士がそれぞれ半分役としてふざけたり笑いあっているのもよくて、隅々まで認識しきれない自分の視界が悔しかった…!千秋楽ではパレードで彩海さんが涙を一筋流していて、顔を見合わせた礼華さんが少し驚きながら笑い合っている景色が本当にきらめいて見えた。



人が居場所をつくる
この物語のなかで、幸蔵は自分の生きる場所を探し求めている。川向うでしか生きられないと言いながら。そして幸蔵が築いた両国のまちを、お壱や三吉たち通り者仲間は居場所だと信じて、どうにか守りたいと思っている。
本当は、そこが川向うか両国かどうかは関係なくて、幸にとっての次郎吉、通り者たちにとっての幸蔵が居場所そのものだったのではないかと思う。だけど、住んでいる場所や職業による差別、一度のしくじりで元に戻れなくなるセーフティネットの弱さ、弱者を踏みにじりながら甘い汁を吸い続ける権力者…といった社会の構造が、そのささやかな居場所を簡単に壊してしまう。
幸蔵が鼠小僧次郎吉として挑んだ本当の悪は、淀辰ではなく淀辰を生んだ社会の構造だったのだと思う。これは江戸時代の話だけど、現代にも当てはまる普遍的な問題。誰かの居場所をつくり守るやさしさと強さをどうしたら私も持てるだろうと、観劇後も考えています。
 

 

礼華さんの幸蔵と彩海さんの次郎吉のこと 

硬派でクールな幸蔵と、人懐っこくて明るい次郎吉の兄と弟、静と動、硬と柔の対比がとても鮮やかに描かれているけれど、これまでの舞台やスカイステージなどを観ていると中の人は逆なのかも、と感じる。

少し前のタカラヅカニュースのコーナーで「(自分は)太陽と月、どちらのタイプか」、という質問に礼華さんは太陽、彩海さんは月と答えていたのが印象的で。
しゅっとしてみえるのに明るくひょうきんな性格が覗く礼華さんは、男役として立派な体格をもちながらどこかあどけない表情がこぼれるギャップがあって、舞台上で本来の自分を曝け出すことに躊躇がなさそうなおおらかさが魅力的。
一方、自称人見知りでコミュニケーションにおいてはどちらかというと受け身な印象のある彩海さんは、華奢で可愛らしい顔立ちに中性的で華やかな雰囲気をもちながら、こつこつ積み重ねたものを舞台上で120%発揮できる胆力とスキのなさを感じる。
そんな中の人ふたりの違いが、幸蔵と次郎吉の裏側のキャラクターに重なるように見えて、人物に奥行きを(まあ勝手にではあるけれど)生んでいてすごくよかった。

彩吹さんの幸蔵はどこまでも冷静で、次郎吉を失うという最悪のパターンをはじめから想定して、なんとか回避しようとひとりもがいていた印象がある一方、礼華さんの幸蔵はもう少し幼くて繊細でだからこそ楽観的で、逆に次郎吉の方が初めから腹を括っているようで、初演と再演で次郎吉を失って幸蔵が味わう絶望の色が少し違ってみえた。

大切な人からなにも奪いたくなかった幸と、大切な人だからすべてを差し出すことができた次郎吉と。どちらも哀しくて愛しい。

 

 

 

こんなに素晴らしい作品を見せてくれた出演者のみなさんや、先生方の未来もまた素晴らしいものでありますように。
 
そして、、、一昨日演目発表のあった、彩海さんと熊倉先生の産み出すエゴン・シーレ、めちゃくちゃ楽しみです。バウ主演、本当におめでたくてうれしい!