星逢一夜@大劇場

初日開けてすぐの土日と、8月の初めの土日に観劇。


舞台を観るたびに、頭の中で反芻するたびに、いろいろなことに気づいたり感じ方が変わったりして
うまく感想としてまとめることができずにいる。
なので、自分のつぶやきからこの1ヶ月を振り返りつつ、すぐに始まってしまう東京公演に向けて気持ちの整理を試みます。


7/19「晴興さんが自分の刀を投げ渡して、鈴虫さんのをつかうのをみて、お泉ちゃんに渡した小太刀のことを思い出して胸を掴まれた気持ち。大切なものをお泉ちゃんにも源太にもあげてしまう心のことを想って。」

7/19「星は綺麗で、みんなの役に立って、優しくて。そんな風になりたかったのかもしれない。」

真ん中の人贔屓のわたしは意識しないとどうしても晴興目線で観てしまうので、
初めて観たときは、なんてどうしようもない、救いのない話なんだ…!
と切なさよりも苦しさでいっぱいで、ほとんど涙も出なかった。
でも出てくる人たちのひとつひとつの行動が、表情が、すべて誰かを想う気持ちと結びついていて、
残酷なくらい美しい物語だな、と思ったのが2回目。

観劇前にwikipediaにて上田先生が着想を得たという郡上一揆について読んで、
上下それぞれの立場の人たちのずるさ、愚かさ、結果の救いのなさにぐったりしてしまっていたので
農民の一揆を題材としていながら、史実、現実のそれにおける汚さを一切排除した舞台に、
先生さすが…!と思う。

マチソワ観劇を2日続け、
どんなに人々が互いを思いやっていても、必ずしも幸せを築けないという残酷さ、運命の絶対さ、無常さに打ちのめされつつ帰京。


7/24「紀之介が出会ったばかりの泉の中の寂しさを立場を超えてまっすぐに見つけたのと同じに、大人になった晴興のなかの寂しさを泉はどんなときでも見つけてしまうことがこのどうしようもなさの根っこにあって、かなしくて美しくて泣いてしまう」

晴興と泉はとても似ている、と思う。
寂しさを抱えて、それでも与えられたさだめを健気に生きているところ。
星の不思議や、里の美しさをありのままに愛でているところ。

とくに後者は、月蝕を不吉なものと捉える江戸城の人や、星に「今と違う世界」という希望を見出す村の人とは全く異なるフラットな価値観に思えて、
寂しさの共鳴に加えて、ふたりが惹かれあう説得力を濃く感じる。


この時代においてはおそらく稀な思想の根っこを持った二人に対して、
「自慢の殿様になれ」という台詞、再び出会った際に口にするたどたどしい敬語、二度の土下座…といった要素から、
源太は晴興との間にある身分差という隔たりを、時間の経過とともに深く大きくしているのがわかる。

7/30「あの二度の土下座は、優しさといえばそうなのかもしれないし最初はそう感じたけれど、身分の隔たりが絶対的なものとしてある溝の深さ、日本人特有の受容性が根底にあるんだと思うとぞっとしてしまう。」

この時代における一般的な価値観として、源太にとって晴興は、あくまでも何かを請いたり、闘わなければならない藩主さまなのだ。
最後まで「苦しそうで」と心を寄せる泉とは違って。


8月の頭に再び観劇。

8/2「紀之介とのお別れの後、ほぼ暗転している中で、貰った小太刀を抱き締めて崩れる泉と、その背中をみつめる源太の顔をみていたら、それと祭りの日に泉の涙拭うまでの一連の表情の変化をみていたら、一昨日までわからなかった源太の優しさの意味がちょっこしわかった気がした」

「残酷なくらい優しい」という上田先生の源太評について考える。
舞台を通して、人の気持ちに対する聡さと、それに基づいた行動をおこせること=優しさなのかしらと感じ
そうだとすると晴興と源太はふたりとも優しい人だと思う。

源太は、自分の行動によって相手を守ろうとする。
高まる憎しみや悲しみを背負って挑む一揆にしろ、惹かれあう泉と晴興を思ってする土下座も。
でもそのことが新たな喪失を生んだり、プライドを傷つけてしまったり。
これを先生は残酷と評しているのだろうか。

一方の晴興は、相手を導いたり、これ以上何かを失わないように行動する。
泉に教える暦、一揆の処理の仕方、最後の泉とのやりとり。


そういうふたりの優しさを一身に受けて、流されずに自らの思いや決意を凛と発することができる泉。

8/2「わたしがあんたを幸せにする!という台詞に伺えるお泉ちゃんの烈しさ強さはとても現代的だけど、きっとこれはこの里で生きることの覚悟でもあるのかも」

8/13「お泉ちゃんの強さ、烈しさにわたしは女性としてすごく心惹かれるし、晴興にとっても救いだったのではないか
晴興の告白に対し、言わずともいい、と答えを求められなかったのに、それでもなお自分の気持ちを言葉に、音にするところ」
8/18「殿様として、源太のように、かつての自分のように生きられず、人々の憎しみを背負うことの果てにきて、何の望みも持っていない、からっぽな晴興に抱き締められて、烈しい想いを告げる泉は、熱くて重たくて透き通ったなにかを彼に注いでいるように思える」
8/18「だからわたしは、美しくて遠くてあまりにも正しく平等な星よりも、泉のもつ生命力のようなものの方が、この物語の希望に感じている。熱くて生々しくて必ずしも正しくも等しくもないなにか。」

泉の、咲妃さんのみせてくれる烈しい情念が、それを発することのできる強さが、
わたしにとってはあまりにも尊く、羨ましいものに感じられる。


『地上から見ていると、星と星はとても近くにあるように感じられますが、その実際の距離は果てしなく遠いという事に気付いた時、三人は自分達の運命を思い知るのだと思います』

観劇と反芻を重ねるたびに納得を深めた咲妃さんの言葉。
星とは違うのは、人には心があること。
晴興、泉、源太は、果てしなく遠いところに身を置きながらも、それぞれがそれぞれに心を寄せあっていたのがわかるから、
悲しみ、痛み、郷愁…いろいろな感情がぐちゃぐちゃになった涙が出てくるのだと思う。


抽象的なまとまりのない感想になってしまった。
東京でも数回観ます。少し怖い。今度はどんなことを感じるだろう。