早霧さんのす(て)きなとこ

Sagiri Seina Special DVD Boxを買いました。

メインコンテンツのDisk1については衝撃が深すぎて、1ヶ月以上経った今でも言葉として表現することができない…
こんなに可愛くて綺麗でおもしろくていやらしくてなお美しい姿を拝見してしまって、
とにかく何かに拝まずにはいられない気持ちになります。はい。

いま書きたいのはDisk2について。
これまで演じたキャラクターを「S」で始まる単語毎にまとめた構成で、
その単語がとても興味深くて、考えてしまって吐き出したくなったので、書きます。

ネタバレしてしまうと、
 "Sage (賢い)" = ルパン三世
 "Sensible (思慮深い)" = 奥村助右衛門
 "Spectacular (華々しい)" = オスカル
 "Shiny (輝く)" = 坂本龍馬
 "Serious (真面目な)" = ダルタニアン
 "Strange (おかしな)" = 小四郎
 "Sad (悲しい)" = 佐助
 "Savage (獰猛な)" = クラウス
 "Sensitive (繊細な)" = マーキューシオ
 "Sensual (官能的な)" = ヴァーツラフ・ニジンスキー
 "Solitary (孤独な)" = フェルナンド
 "Selfish (利己的な)" = アラン・ド・オルレアン
という12個のキーワード、12人のキャラクターが挙げられています。

どれもキーワードとキャラクターとのマッチングになるほどと思ったし、
さらにそれぞれが芸名の早霧せいなさん自身の”らしさ”を言い当てていると思えて、
あらためてわたしが彼女に惹かれてやまない理由を整理できたような気がしました。

舞台姿はSpectacularでShinyでまぶしいのだけど、
おそらく彼女自身のSageさ、Sensibleさ、Seriousさゆえに
いつも通奏低音のようにあるSadさSolitaryさSensitiveさから目が離せなくて、
役によって、また役を降りたときに見えるStrangeなところに癒されて、
時折のぞくSensualだったりSavageだったりする表情や仕草にどきっとする

一対一で役を当てはめた言葉ながら、どの役にも、早霧さん自身にも感じることでもあって、勝手に深い納得感があります。

Disk1にはそんな早霧さんが詰まっています!!(とくにStrange、Sensual、Savageなところ)
もう、この12個の単語とこのDVDで早霧さんの素晴しさを全世界にお伝えしたい気持ちです。
それにしても、たとえばまっ白な衣に包まれているほど、Savageさを濃く感じるのはなぜだろう。不思議な人です。


最後の"Selfish"については、たしかにアランは脇目もふらずコリンヌを手に入れようとする自己中さんなんだけど
もしかして「利己性」って、早霧さんのお芝居についてわたしがいつも感じる「真摯な優しさ」に当てはまる言葉にもなるのではとふと思った。

優しい、ということは普通、利他的であることを意味すると思うのだけど、
彼女(の演じるキャラクター)から滲み出る優しさは、他人の喜びや悲しみをまるごと受け止めた上での、っていう気がする。

人と人が完全に同じ気持ちになること、わかりあうことはありえなくて、その孤独を前にしながら
”あなた”の心の動きを他人事じゃなくて”わたし”事としているというか、
ネバセイ的に言うと、「同じものをみている」というかんじ。

ルパンがマーリーちゃんに言う「被害者ぶるのはみっともない」のからっとした優しさとか。
マリーのこともカリオストロのことも哀れまない言動のすべてとか。

東京に来てからの晴興について感じた、
源太の憤り、泉の悲しみを一身に受け止めて、ただただ彼らの感情に染まっているような真っ白さ、静かさとか。

うまく言い表せないけれど、
他人と自分との間の境界ほど確かで、不安定なものはなくて
それを自由に飛び越えてゆける人ってとても希有だと思うのです。
そして、相手のことを少しも否定しない。
こんな風に気持ちを受け止めてくれる人がいたら、安心して心を曝け出せちゃいそう。

咲妃さんは、感情を放出するようなお芝居をするな、と思うのですが(そのバリエーションの豊かさよ!)
その感情を受け止める早霧さんのたたずまいに感じられる包容力は、男役のそれとしてはとても新鮮にみえます。

非論理的だし、すべてわたしが勝手に感じ考えていることですが、
奇跡的に美しい人がもつ、希有な優しさのかたちに感じ入ることができて、
ありがたいなーと思う日々です。


さて、東京公演中盤を過ぎた雪組公演ですが、7月から星逢一夜のことをぐるぐる考えすぎた結果、
晴興さんがあまりにも綺麗で、もううれしくてかなしくてしかたないという一心で観ています、最近。
贅沢なことです。

星逢一夜@大劇場

初日開けてすぐの土日と、8月の初めの土日に観劇。


舞台を観るたびに、頭の中で反芻するたびに、いろいろなことに気づいたり感じ方が変わったりして
うまく感想としてまとめることができずにいる。
なので、自分のつぶやきからこの1ヶ月を振り返りつつ、すぐに始まってしまう東京公演に向けて気持ちの整理を試みます。


7/19「晴興さんが自分の刀を投げ渡して、鈴虫さんのをつかうのをみて、お泉ちゃんに渡した小太刀のことを思い出して胸を掴まれた気持ち。大切なものをお泉ちゃんにも源太にもあげてしまう心のことを想って。」

7/19「星は綺麗で、みんなの役に立って、優しくて。そんな風になりたかったのかもしれない。」

真ん中の人贔屓のわたしは意識しないとどうしても晴興目線で観てしまうので、
初めて観たときは、なんてどうしようもない、救いのない話なんだ…!
と切なさよりも苦しさでいっぱいで、ほとんど涙も出なかった。
でも出てくる人たちのひとつひとつの行動が、表情が、すべて誰かを想う気持ちと結びついていて、
残酷なくらい美しい物語だな、と思ったのが2回目。

観劇前にwikipediaにて上田先生が着想を得たという郡上一揆について読んで、
上下それぞれの立場の人たちのずるさ、愚かさ、結果の救いのなさにぐったりしてしまっていたので
農民の一揆を題材としていながら、史実、現実のそれにおける汚さを一切排除した舞台に、
先生さすが…!と思う。

マチソワ観劇を2日続け、
どんなに人々が互いを思いやっていても、必ずしも幸せを築けないという残酷さ、運命の絶対さ、無常さに打ちのめされつつ帰京。


7/24「紀之介が出会ったばかりの泉の中の寂しさを立場を超えてまっすぐに見つけたのと同じに、大人になった晴興のなかの寂しさを泉はどんなときでも見つけてしまうことがこのどうしようもなさの根っこにあって、かなしくて美しくて泣いてしまう」

晴興と泉はとても似ている、と思う。
寂しさを抱えて、それでも与えられたさだめを健気に生きているところ。
星の不思議や、里の美しさをありのままに愛でているところ。

とくに後者は、月蝕を不吉なものと捉える江戸城の人や、星に「今と違う世界」という希望を見出す村の人とは全く異なるフラットな価値観に思えて、
寂しさの共鳴に加えて、ふたりが惹かれあう説得力を濃く感じる。


この時代においてはおそらく稀な思想の根っこを持った二人に対して、
「自慢の殿様になれ」という台詞、再び出会った際に口にするたどたどしい敬語、二度の土下座…といった要素から、
源太は晴興との間にある身分差という隔たりを、時間の経過とともに深く大きくしているのがわかる。

7/30「あの二度の土下座は、優しさといえばそうなのかもしれないし最初はそう感じたけれど、身分の隔たりが絶対的なものとしてある溝の深さ、日本人特有の受容性が根底にあるんだと思うとぞっとしてしまう。」

この時代における一般的な価値観として、源太にとって晴興は、あくまでも何かを請いたり、闘わなければならない藩主さまなのだ。
最後まで「苦しそうで」と心を寄せる泉とは違って。


8月の頭に再び観劇。

8/2「紀之介とのお別れの後、ほぼ暗転している中で、貰った小太刀を抱き締めて崩れる泉と、その背中をみつめる源太の顔をみていたら、それと祭りの日に泉の涙拭うまでの一連の表情の変化をみていたら、一昨日までわからなかった源太の優しさの意味がちょっこしわかった気がした」

「残酷なくらい優しい」という上田先生の源太評について考える。
舞台を通して、人の気持ちに対する聡さと、それに基づいた行動をおこせること=優しさなのかしらと感じ
そうだとすると晴興と源太はふたりとも優しい人だと思う。

源太は、自分の行動によって相手を守ろうとする。
高まる憎しみや悲しみを背負って挑む一揆にしろ、惹かれあう泉と晴興を思ってする土下座も。
でもそのことが新たな喪失を生んだり、プライドを傷つけてしまったり。
これを先生は残酷と評しているのだろうか。

一方の晴興は、相手を導いたり、これ以上何かを失わないように行動する。
泉に教える暦、一揆の処理の仕方、最後の泉とのやりとり。


そういうふたりの優しさを一身に受けて、流されずに自らの思いや決意を凛と発することができる泉。

8/2「わたしがあんたを幸せにする!という台詞に伺えるお泉ちゃんの烈しさ強さはとても現代的だけど、きっとこれはこの里で生きることの覚悟でもあるのかも」

8/13「お泉ちゃんの強さ、烈しさにわたしは女性としてすごく心惹かれるし、晴興にとっても救いだったのではないか
晴興の告白に対し、言わずともいい、と答えを求められなかったのに、それでもなお自分の気持ちを言葉に、音にするところ」
8/18「殿様として、源太のように、かつての自分のように生きられず、人々の憎しみを背負うことの果てにきて、何の望みも持っていない、からっぽな晴興に抱き締められて、烈しい想いを告げる泉は、熱くて重たくて透き通ったなにかを彼に注いでいるように思える」
8/18「だからわたしは、美しくて遠くてあまりにも正しく平等な星よりも、泉のもつ生命力のようなものの方が、この物語の希望に感じている。熱くて生々しくて必ずしも正しくも等しくもないなにか。」

泉の、咲妃さんのみせてくれる烈しい情念が、それを発することのできる強さが、
わたしにとってはあまりにも尊く、羨ましいものに感じられる。


『地上から見ていると、星と星はとても近くにあるように感じられますが、その実際の距離は果てしなく遠いという事に気付いた時、三人は自分達の運命を思い知るのだと思います』

観劇と反芻を重ねるたびに納得を深めた咲妃さんの言葉。
星とは違うのは、人には心があること。
晴興、泉、源太は、果てしなく遠いところに身を置きながらも、それぞれがそれぞれに心を寄せあっていたのがわかるから、
悲しみ、痛み、郷愁…いろいろな感情がぐちゃぐちゃになった涙が出てくるのだと思う。


抽象的なまとまりのない感想になってしまった。
東京でも数回観ます。少し怖い。今度はどんなことを感じるだろう。

星影の人

念願の!博多座に!行ってまいりました。

「星影の人」は、彩吹さんに恋していたころ
友達に水さん全国ツアー版を録画してもらい、
台詞を覚えるほどに繰り返し観ていた大すきな作品で
このたび生で、しかも早霧さんで観ることができて、感無量です。。

ようやく降り立った博多なのに
もろもろの都合で一度しか観れなかったのは無念でしたが
物語の端々が、舞台の上の人々の命が、死の淵を生きる早霧さんが、美しくて美しくて、、
それだけで涙が出た。

早霧沖田さんは聡明でエゴイスティックで、それゆえに強くて脆くて
見つめていると苦しくなってしまうような人でした。

映像をみていた限りでは、土方さんの言だという「明るさで寂しさをごまかしている」がぴんとなくて。
舞台をみて感じたのは、ごまかしていたのは寂しさだけじゃなくて、
怒りとか迷いとか、そういう湿度のある人間的な感情いろいろだったのではないかということ。
ときめいたり、いらいらしたり、そういう風に、玉勇さんをめぐって感情が激しく動くことを、
「素直になれる」と言っていたのかなあ。

聞き間違いかもしれないけど、水さんのときは「心の闇」と歌っていたところが
「心の陰」になってたような…それがすごく個人的に納得だった。
(ここについてはあとでちゃんと言葉にすること!)
きっと他人の心の陰にも敏感に気づくような人なのに、
それでもけして汚れない白さ、清さを、周りの大人たちは愛でていたんじゃないかと感じた。
(そしてこれは早霧さん自身に対してわたしが眩しく感じていることでもある)

玉勇さんをめぐって感情が激しく動くこと、を一番感じたのは嵐山の紅葉の中の玉勇との場面。
新撰組を辞めて、逃げて、という玉勇さんに対して、
水さんはその懸命さに優しくて、自分の選ぶ道をすでに見据えてるようだったのに、
早霧さんは"困ったなあ"と言いながら、ちょっといらいらしてる風にみえた。

そのいらいらの原因は、玉勇さんの想いと、剣に生きる道との優先度を図りかねていたことで、
でもその問答によって、天秤にかけられないことを悟ったというか。
たしかに沖田さんの生き甲斐は物語の始めから終わりまで「剣」だったのだけれど、
たとえ残りの時間が短くても、すきな人に辞めてと言われても、それが変えられないことを
土方さんに宣言したときよりもくっきりと自覚した顔にだんだんなっていくの。

剣に生きることを沖田さんが再確認してしまうのは、
玉勇さんにとっては、絶望的なことだ…
とあらためて思ったら、苦しくてしょうがなくなった。
"わたしと一緒に生きて下さい"と優しげにいう言葉の残酷さ。

玉勇さん。
染香姉さんへの頼りっぷりに(そして、早花染香さんの当然のような頼もしさに)
一流の芸者でありながら、本当は引っ込み思案な人なんだろうとすごく思った。
そういう人が通りすがりの男のひとに傘を貸したり、ましてや自分から逢引に誘うなんて、どれほどのことだったのか、
対して、
紅葉の中でのやり取りにみえる激しさ、
咳き込む沖田さんを身を挺して気遣う強さ、
すきな人よりも先に死ねてよかったと笑う狂気に
ひとりの人間としての奥行きと一貫性とがあって、
脚本の力にも、役者咲妃みゆの力にも圧倒された。

それにしても、玉勇さんとの出会いを「足がすくみました、自分より数段上の剣客と向き合ったときのように」とか、
すきな人の仕事ぶりを「あれは剣と同じ呼吸だ。」とか例えちゃう沖田さんは、
救いようがないくらい仕事脳なお人だ。
そんな人を愛してしまった玉勇さんのさらなる救えなさといったら、、
沖田さんの病を知った直後の放心の表情が痛ましかった。
"雲が綺麗だ"が切なくてしょうがないよ。
沈む太陽の光を映す雲の美しさは、一瞬でうつろうものだから。
それに同じものを見ていても、考えていることが全然違っているのだと思うと。


新撰組隊士であるがゆえの人殺し、という稼業についても、
その闇を認識したのは山南さんとの最期のやりとりだったのではないかな…今の感想としては。
ただ、1度きりの観劇では、殺陣のすごさに圧倒されて、
その時々の沖田さんの表情まで覚えていられなかった。
それはそれは美しい立ち回りでした…なんで瞼に焼き付いてないんだろう。
どういう風に考えて演じていたのか、聞いてみたい。。



その他思ったこと。
・女の魔性を含めて愛している土方さんの男の大きさと可愛さにうっとりする。
・「淡白な少年だった」という土方さん談。剣のこと以外に執着のない沖田さんが初めて心の湿度を高めたのが、玉勇さんへの恋なんだろうな。
・にこにこお茶を淹れる沖田さんがかわいすぎた。
・幾松うきちゃんのお芝居、彩風桂さんへの執着と桂さんに惚れられる女ぶりとが感じられてすごくよかった。沖田さんへの「おおきに」もすき。
・早苗あゆみさんの袴姿の凛々しさと、振袖を着て"琴を聞きに立ち寄って"と言う健気さの間にも、玉勇さんと同じく矛盾がなくてよかった。
・寿命を知った沖田さんに、"お大事に"と言う良玄先生と、"大切に生きて下さい"と言う早苗さんは似たもの親子。医者のことばとしての含みを思い出すたびにいろいろと感じる言葉。
・真心の歌でみえる玉勇さんの思いの熱量と、"自分の寿命を知りたい"と言う沖田さんの静かさの対比よ。
・"2年か、忙しいな"の後の幻想のような場面の扇形のフレームの中の世界が扇絵みたいで美しかった。このあいだ根津美術館で見た尾形光琳の扇絵みたいに、少ない要素に濃密な物語がこめられているのがすごい。
・自ら死を選ぶ山南さんに対して、思いがけず死を目前にしている沖田さんは何を思ったのだろう。土方さんに介錯を命じられた時の絶望の表情。ふたつのカップルにはいろいろな対比が感じられて、物語を辿る度にはっとする。
・山南さん切腹前の佐藤くん井上先生のやりとりの効果。時の流れの生む、人々の気持ちの変化と成長、それゆえの無情と希望とをさらりと感じさせる。その後の戦闘場面の"佐藤!""永倉さん!"も泣けちゃう。
・どの立ち回りも素晴しかったけど、沖田さん桂さんの最後のそれは本当にすごかった。型通りにやっているかんじが全然なくて、気迫と気迫がぶつかっていた。息を止めて見てしまった。
・どんなに髪を振り乱しても、汗と涙でぐちゃぐちゃでも、生きて生きて生きる早霧沖田さんは美しかった。怖いくらいに。


いつもは演じ手よりの感想を書きたくなるだけど、
今回のは台詞と演出と演技とが一体となって物語を感じている、から、
感じた密度はすごいのに、言葉が紡ぎにくくて困る。

1度の観劇じゃ観きれなかったけど、
ひとりひとりの力で、舞台の隅々まで物語が生きていたのがすごく伝わった。
それを感じられただけでも幸せ。




以下、すこし下品な話。





水さんと早霧さんに感じた一番の違いは、男としての完成度、だと感じた。
みゆ玉勇さんはやさしくやさしく沖田さんの少年を剥がしてあげたんだろうなあ。
だってその踊りの最中にどんどん沖田さんが男の顔つきになっていくんですもの。
びっくりしちゃったよ。
玉勇さんの手を掴んで引き寄せる力強さと、背中を抱く手の初々しさに、ぞくぞくした。

ふたりで踊る部分の星影の人の歌詞が
"素足に塗り下駄"、"襟の白さ"、から
"息づかい"、"髪の香り"、に続くのも、ね。
ほんのりと段階が進んでいて、うまいなああ、としきりに思う。

ルパン三世(+ファンシー・ガイ!) 男らしさとは

大劇場公演の初日に行ってまいりました。

うつくしいひとの、うつくしい舞台人生の、特別な姿を観ることができて
ほんとうにありがたい思いでいっぱいになった。
黄金色の光のなか、黒燕尾を着て、大階段にひとり立つ姿のうつくしさに泣く。

でもルパンを観ているあいだはそんな感慨の隙間もないくらい、
楽しい気持ちでお腹いっぱいな幕間を迎えました。
ほんとうに楽しかった。

東京に帰ってきて、記憶を反芻しながら考えるのは、
早霧ルパンの男らしさについて。

この舞台を観るまえから、"男らしさ"も"女らしさ"もその正体は"優しさ"なんじゃないかな、
とぼんやり思っていて。

早霧さんのルパンはそんな仮説をたしかにしてくれる男らしいルパンでした。

たとえば窮屈な宮殿から一緒に抜け出したマリーの、
"お城に閉じ込めておいて、なんにも知らないと責めるなんてひどいわ"
に対してかけることば。
"被害者ぶるのはみっともないぜ、知ろうと思えばなんたって知ることができる"
ぜんぜん湿度がなくて、説教臭く聞こえないの。
同情とは違う次元の、深みのある優しさを感じる。

"わたしの将来はどうなるの?"
と無邪気に聞くマリーに、"幸せに暮らすよ、家族とずっと。"と答え、
自分たちが現代に戻れないかもしれないリスクを犯しながら
そのことばを嘘にしないために動くこと。
成功後も、自分を案じるマリーに
"わけないさ"
とからっと笑うかっこうよさ!

今日フジテレビでやっていた宝塚の番組をみていて、
"外国の映画から、男らしい仕草、男の色気を学んだ"とあって
たしかにそういう外見的な、宝塚的記号的なそれらにもきゅんとするんだけど
(おもに女性がそのための努力を重ねているという点で)、
こんなふうに無条件な優しさ=内面の男らしさ、を宝塚で感じることは
あまりなかったかもな、とあらためて思ったのでした。

それもルパンだなんて。不意打ちすぎる。

これが脚本演出によるものなのか、早霧さんのお芝居によるものなのか
たくさん観てたしかめることができたらいいな。


みゆちゃん演じるマリーアントワネット。
出てきたときから直感の鋭さ(たとえば対ローアンさん=きんぐさんの変態さ)と
人並みはずれた素直さを持て余しているのがすごくわかって、
それゆえの革命後の覚悟の姿にとても納得感があったのがさすがと思った。
自分の愚かさに気づいているけれど、
自分の興味や寂しさや愛情や目の前でおきることをただただ受け入れていくことしかできないひとだったんだな。

ルパンと宮殿を抜け出すときの吐息みたいな「よいしょ」がかわいすぎた。


ほかにも。思い出すたびに
銭形さんは、ほんと銭形さんなのに、
ルパンとの信頼関係と、早霧さんと夢乃さんのそれを重ねて苦しいし、
カリオストロさんはかわいすぎるし、
ふじこちゃんのエロくない記号的なエロさがすごくいいかんじだし、
五エ門はさりげなくお茶目で素敵だし、
次元のスタイルのよさにびっくりするし、
あとあとあと…∞。

わたしにとっては一回きりの大劇場公演だったので
東京の初日が楽しみでなりません。

ショーに関しては、東京でもっかい観てからアウトプットしたいと思う。



それと
先述の、異性への無条件な優しさを男らしさ・女らしさと感じることと
早霧さんと咲妃さんの演技に感じる利他性というか…
には関係があるのかなと思ったので、
今後考えて言語化していきたいと思った。宿題。

伯爵令嬢 愛おしすぎる世界

千秋楽を観る前に。

初日と次の日曜日と、2回観ることができましたが
こんなにも感じ考えたことを記し残したくて、
こんなにも言葉にまとめられない舞台は初めて。
一日中、抱えたままの作品や早霧さんへのおもいが心を占めすぎてつらいほどです
でも幸福感でいっぱいなのは確か。

こんなに楽しい、愛のある作品を生み出してくれた生田先生に感謝。

ありえないできごとが次々に起こる漫画的なお話の展開ではあるけれど、
隅から隅まで人間の温度を感じるお芝居をする雪組さんによって
命をふきこまれたキャラクターたちの生きる舞台は、観ていて本当にきもちいい。

凝った衣装や装置も、映像や布を使った演出もほんとうに見応えあります。

生田先生がTBSの特番でおっしゃっていたことだけど
19世紀末のパリという、闇を抱えながらも新しい時代への希望に溢れた背景、
コリンヌへの愛、新聞への情熱というふたつの圧倒的揺るぎない思いをもち
またそれゆえのずるさや弱さ、葛藤を抱えながら前にすすんでいくアラン、
そのときどきでひとつの気持ちに染まり、曇りのない明るさでアランを見つめ振り回すコリンヌ、
恋人を奪われながらも「いつか君に追いついてみせる」とさわやかに振る舞うリシャール、
全力の真面目さとお茶目さでお屋敷とぼっちゃんを愛し守るじいやさん、
ふたりに優しいまなざしを向け楽しそうに働く可愛いメイドのみなさん、
アランの新聞への思いを共有し対等に熱心に働く新聞社の方々、
アランに憧れる気持ちを素直にもちつづける新聞少年、
いろいろな困難に見舞われながらも、最後はみんなに祝福されるふたり…
物語の大枠からディテールに至るまで
いま、この宝塚、雪組、トップコンビにぴったり仕立てられた作品すぎて
お話の結末と二重の意味で幸せな気持ちになるのです。

そのうえにあのフィナーレ。
真ん中仕様のきらきら衣装を纏いスポットライトを浴びる姿にぐっときます。
薔薇を女性のように抱えみつめる手つきや眼差し、三者三様にどきどきします。
ローズピンクのドレスを着たみゆちゃんはほんとうに花のように可憐で、
けっして広くはない早霧さんの腕の中にすうっと収まる姿、
華奢な早霧さんに抱えられてくるくるまわるリフトの意外な安定感、
びっくりと嬉しさでいっぱいになる。
見つめあいおでこを寄せ合い微笑み合うふたりの愛おしさといったら…!

最後に階段を降りるとき
歌がないのでこちらも思う存分に拍手で迎えられることがうれしい。
真ん中だけじゃなくて、端の方に至るまで、
そして観ているこちらも生き生きした笑顔で幕が降りるのがとてもうれしい。

こんな舞台と出会えて、わたし、しあわせよ!

ベルサイユのばら フェルゼン編

224年前の今日はオスカルとアンドレが結ばれた日です。
そんな歴史的事実はないけども。

そんなわけで観てきちゃいました。

やっぱりつまんない脚本、ってどうしても思うんだけど
3回観て、観る度に進化した舞台を見せてくれる出演者の方にはほんと感心します。
舞台をつくる職業の人として尊敬します。

お別れを聞いたオスカルがフェルゼンに抱きつくのは植田先生の演出ときいて、
他はほとんど文句しかないけど、そこだけは感謝。
スキンシップの激しい子っていうキャラクター設定は、
人間愛の深くて広い人という、さぎりさんの役作りにも説得力を添えている気がするよ。
それに…かわいくてかわいくて愛しさが増します!

前回花祭りの場面で、きんぐさんがさらさちゃんのほっぺにキスしたように見えたのは、幻ではなかったらしい。
さらさちゃんのお誕生日だったんだねー。
きんぐさんなかなか素敵じゃないか!
国境もますますかっこよく守ってた。

そして今宵一夜。

今日はなんだか…めっちゃ近かったです。。
手を重ねてキスする体勢に入ってすでに顔と顔が…近い。
まつださんそんな焦ったらだめぇ!と思いつつ、とてもどきどきしました。
でももうちょっとオスカルのキス待ち顔をじっくり眺めたかったかも…っていうのは贅沢です。
ときめきをありがとう。

あと、今回フェルゼンからアンドレへの心変わり(じゃないけどさ)の過程は全く描かれていないけど、
オスカルの告白を聞いてると、
そういう自分のずるさを自分でわかっていることが感じられて、
いじらしくてより愛しくなります。

彩風さんがめちゃめちゃかっこよいリーダーになっていた!
ちゃんと荒くれものをまとめている頼もしい人に見えた。

民衆たちの歌に今日も感動。
音月さんのときからか、雪組のコーラスは綺麗な上に厚みもあって宙にも負けてないぜって思う。
お芝居も隅の人まで集中を切らさないし、観る度に迫力を増している気がする。
すごいなぁ。

バスティーユ
最近漫画を読み直してあらためて感じた、原作オスカルの印象との差を言葉で表したくて、できない。
こちらのオスカルは心身を擦り減らして生きているのを強く感じる...
いや原作もそうかもしれないけど、存在のすべてをどんどん消耗しながら生きて、さいごはいのちが消えるしかないのが必然というか


この場面に限らず、原作はその存在の白さ、輝きによって世の悪とか負の部分を跳ね返して前に進んでいるような人、
こっちのオスカルさんは、あまりに透明で、全部を受け入れて、何にも染まらないけど、その重さを内に溜め込みつつ踏ん張っているような人、
と感じるのです。なんでかなぁ。
うーん、もうちょっと考えよう。。

きょうは倒れこんだ目の前に剣がまっすぐ落ちていて
撃たれ、アンドレの不在を嘆きながらも、
剣を取らなければいけない、剣を取って立ち上がるしかない姿が
ほんとに痛々しかった。

撃たれてから亡くなるまでの呼吸がリアルで
あぁ、いのちが消えた…と幕が閉まってもしばらく呆然としてしまう。
ごめんせり上がってくるJさま。見れない。



「王妃様だけでもお助けに行く!!!」のところのJさまの
「まじで!(゚д゚)」
って反応がおもしろかわいくてすき。

それにしても片足を乗せるフェルゼンさまのシルエットは完璧すぎる。

今日の牢獄はよかったなぁ。
アントワネットが何度もいう「ありがとう」が
やさしくて気高くて悲しくて。
この方もまた最後まで愛に生きた人なんだなぁとおもう。

デュエットダンスであゆちゃんを迎える壮さんの目尻がすごく下がってて、いい。

でもたしかに飼い犬を見るご主人さまの眼だ...

黒燕尾は全体を眺めたい気持ちと、さぎりさんのすべてをなるべく心に焼き付けたい気持ちで葛藤する。
今日は後者をえらびました。
オスカルメイクで黒燕尾姿なのがいいの。
きれい、としかいいようがないくらい綺麗。
最後の伏せた顔が最高にすき。

階段降りた後Jさまに笑いかけてるだろうオスカルさま。見えないけど。すき。

たぶん次が最後。
母と行くのでオペラグラスは譲って全体をみよう。

夜のオスカルさまは綺麗さが増すとの噂を聞いたので、楽しみです。

ベルサイユのばら フェルゼン編

どうしてもがまんできず、初日行ってきちゃいました。

研究室を抜け出して。こっそり。


はー観れてよかったー。

久しぶりの雪組さんがうれしくて!しあわせ!
それに、ほんとにみなさん熱演でした。
すみずみまで、揺れ動く表情があるお芝居。
やっぱりわたしは雪組の舞台がすき。


とんでもない言動のフェルゼンさまに、とんでもない説得力をあたえる壮さんのすごさとか
美しく気高いのはもちろん、人間らしい心の動きを感じさせるあゆちゃんとか
オスカルへのひたすらにやさしいまなざしがたまらないアンドレまっつさんとか
あついココアをぶっからけれても平気そうな熱血ジュロさまとか
きのこヘアがかわいすぎるまなはるくんとあすくんとか
おしゃべり貴族に、三色旗ふる市民に大活躍のにわさまとか
アントワネットさまへのお心ががせつないゆうちゃんさんとか
誰よりもたくましそうなロザリーとか
丁寧なコーラスや、変わらず感動的に揃った群舞とか
脚本へのつっこみとか
もっともっと

おもったことはたくさんあるけれど



とりあえず、とにかくオスカルさま!



1幕ははじめての生ベルばらにおののいて笑、
その世界にあまり浸れなかったせいか、
ひたすら可愛くてかわいくて…っていうのが幕間の感想。

ビジュアルはもちろん、オスカルの真面目さが可哀想で、かわいい。


だけど2幕目、アンドレを呼ぶ前の思いつめた表情に、
出陣の決定に至るまでの原作エピソードをがーっと思い出して、
すごく気持ちがのったの!


噂に聞いていた今宵一夜は、
期待していた以上のどきどきと、
わたしのオスカルアンドレ観の深まりをあたえてくれました…
とだけ言っておきます。


そして
じつは今宵一夜よりもみたくてたまらなかった、フランス万歳。

だってわたしさぎりさんの死に際のお芝居がほんとにすきなんです。
線香花火の最後みたいな、生のかがやきとせつなさとを感じられるから。

オスカルさまの最期もさいこうだった…

ものすごく重い決断をして市民側につき
アンドレの死を受けとめて
受けとめきれなくて
撃たれても剣を取って立ち上がって
最期の一瞬までフランスをおもっていることが

ずしずしっときました。
思い出して泣きそう。


最初に撃たれたあとの、

2回言う「アンドレ!」のちがいと
つづく「もうお前はいないのか...」が痛々しくて。


こんなに胸が締め付けられたベルばらはじめて。


はじめての生観劇っていうのも大きいし、
多分に贔屓目はいってるからだと思うけど、

ひとの心は、感じるこころは、自由なのだからいいのです!

白薔薇と例えられるに納得のいく、清らかなオスカルさまでした。

今晩はこの感動を噛み締めながら眠りたい。



さいごに。
幕が開いて、スポットを浴びる壮さんあゆちゃんをみて、
心からトップ就任おめでとうございます
と思えました。

中日のときは、ひねくれた気持ちだったんだなーという自覚。

壮さんが真ん中の雪組黒燕尾、すばらしい景色だった。



少しも早く、また観にいきたいです。